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月夜の海、朔の森

『シュタイナー思想とヌーソロジー』予約しました!

待ちに待った「シュタイナー」と「ヌーソロジー」のコラボ本が
いよいよ今秋に出版ということで
さっそくアマゾンにて予約しました。
『シュタイナー思想とヌーソロジー』半田広宣・福田秀樹・大野章(著)

表紙の画像を一目見て、「あ、アレだ!」
と、アニマンダラのレクチャーを思い出し

(こちら『ANIMANDARA生命の己読みブログ』に、
書籍に至る経緯や表紙に関する事柄も詳しく書かれています。)

また、2013年の8月に神戸で行われた「シュタイナー」の講演会(福田秀樹氏と半田氏のコラボ講演&対談)のことも思い出しました。

その講演会は、事前に予約し料金も支払っていたにも関わらず
諸事情で行けなくなってキャンセルした(お金も払い戻ししていただきました)
あの講演会のことで・・・。
行けなくなったのは仕方ないから、後からDVDを購入して見たのでした。

そんなこんなを思い出して、昨日はそのDVDを見直しました。

講演、対談の内容及び資料から、つくづく感じたのは
言葉(書くにしろ話すにしろ)に表現するには
その表現されたものの後ろに、それを表現した人の、膨大な知識と経験がつまっているということでした。
ここで言う知識というのは、もちろんバラバラの断片的知識ではありません。
乾いた(カタログ的な)知識でもありません。
有機的結合を果たした知識、ドックンドックンと脈打つ、生きた知識のことです。

今回のコラボ本は、これがタップリ詰まった書籍ですから
1000ページを超えるのも致し方なく、お値段も1万円超えですが
けして高くはない、むしろそれ以上の(はるかに高い)価値があると思っています。
(いえ、もう価値が金銭に替えられないものになっている気がしています。)

注:後に段組編集によりページ数が減りました。
  それにより、お値段も本体価格8000円まで下がっています。



さて、ここからは、ワタクシゴトの「シュタイナー」&「ヌーソロジー」について書こうと思います。(長い前フリでしたが、本の紹介にもなればということで。)






私がシュタイナーを知ったのは学生時代の頃のことで、もう30年以上も前の話です。
最初は、確か児童心理の講座で扱われていたシュタイナー教育の本から入ったのでした。
これが、当時の私のツボに妙にはまりまして、その後教育関連以外のシュタイナー本を読むようになりました。
言葉も概念も難解だし、一冊読んでもその中でわかることはほんの一握り(一つまみ?)
・・・なのに
何故かメチャクチャ面白いと感じてしまう・・・
それが、当時(20代)の私のシュタイナー本に対する感想でした。

しばらく間があいて、30代になってから、また別方面からシュタイナーに触れる機会があり
このときは、かなりの衝撃を受けました。
「以前に読んでいた時は、何もわかっていなかったのだ!」という感じの衝撃です。
過去に読んだものをもう一度引っ張り出して読み直し
また新たに購入して(それでも総数20冊にも満たない)読みました。

以前よりはわかるようになっていたのですが、それでも、難解であることには変わりなく
わかるところが増えた分、よけいにわからないところが明確になるような
もどかしさも感じていました。

それから40代も近くになって、私はヌーソロジーに出会ったのです。
『人類が神を見る日』を読んだのは1999年の秋だったと思います。
『人類が神を見る日 アドバンスト・エディション』はこちら

立て続けに『シリウス革命』を読み、
シュタイナーとの類似性に強く興味を持ちました。
シュタイナーで知りたかった(でも難解で知りえなかった)ことが
ヌーソロジーを知ることでいくらか解決もしていったのでした。

『シリウス革命』でも、シュタイナーのことに若干触れられていましたし
『phonio』vol.01では、生物学者大野氏が記事の中でシュタイナーに触れていて、また
『phonio』vol.02では、大野氏と半田氏の巻頭対談「生命と霊性」の中で
   ヌース理論(当時のヌーソロジーの呼び方)は、ポスト・シュタイナー理論のようなものだと認識しています。   と、大野氏の言があり
ああ、やはり、そうなのだ・・・と、ヌーソロジーとシュタイナーの深い共通性を私が感じたのは、私の勝手な妄想ではなかったのだと知りました。

2010年9月に行われた「ヌースレクチャー 2010 FINAL  EVENT」で
大野氏が『ヌーソロジーとシュタイナー神学』と題して講演された時のDVDがあるのですが
ものすごく感激して見たものです。

そうして、もっとガッツリ(ヌーソロジーとシュタイナーのコラボを)見てみたいと
よけい強く思うようにもなりました。

そこへ、ブログの初めの方にも書きましたが、2013年8月にシュタイナー関連の講演会があると知り、さっそく申し込んだのでした・・・が、あいにく出席できず
後からDVDを購入し、おかげさまで見ることができたのでした。

そして、この講演会(後に東京でも)が発端となり、
今回のコラボ本出版への道がついたという話です。
ガッツリを希望していた私としては、願ったり叶ったりで、もう買うしかありません!

表紙には、五月に御縁をいただいたアニマンダラの天海さんも関わっていらっしゃいますし
観音企画の景山さんにも(キャンセル、返金などと)お世話いただいたこともあり
そんなこんなをひっくるめて
私としては、とにもかくにも嬉しく待ち遠しい出版となりました。

この本の作成に直接携わった方々の感慨は、ひとしおでしょう。

陰ながら、本が多くの人の手に渡り、読まれることを祈っています。

「ヌーソロジーを知らないなんて、オックレテル~」
という時代は、もう来ているのだと(勝手に)思ってます(笑)。


6月25日にアマゾンの予約をしました。
9月末ごろの発売を心待ちにしています。

以上、私が「ヌーソロジー」と「シュタイナー」のガッツリコラボを
強く希望していた理由・・・でした。



なお、『ヌースレクチャーDVD』 
及び 『phonio vol.02』(他ヌーソロジー関連書籍)
ヌースアカデメイアのショップでご購入できますが、
レクチャーDVDの2009~2010は、ダウンロードのみとなっているようです。
『FINAL EVENT』は出ていない模様。
『phonio vol.01』も今は出ていないみたいです。








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知りたいことは道しるべ

ヌーソロジーを知った当初、なんだか面白くて、
「プサイ1・プサイ2・・・プサイ3・・・・」
とか、頭の中でイメージをしている内に、
「あれ?」と思う瞬間が時々訪れるようになりました。

以前このブログにも書いたことがあるのですが(前記事『生きている絵画』はこちら
「自分が見ていると思っていた世界」と
「自分が本当に見ている世界」の違いがわかる感覚です。
今まであると思っていた奥行の距離が消えてしまった感覚です。

そして、そういう感じを掴んでいく内に、今度は
「ありゃ~、大変だ!・・・私は他者の意識に落ち込んでいる!」
と、はっきりわかる感覚が現れました。
それはまるで、情け容赦なく全てを呑み込みながら渦巻く濁流の底に潜って
何か大切なものを見つけ、抱きかかえたときの感触のように思えました。
それが何かはわからないけれど、とにかく大切なものなのだ・・・という直感。

その時、次々に現れてくる記憶のフラッシュバックに、私は愕然としました。
過去のいろんな場面での、いろんな人に対面して会話する自分の姿の奥にある気持ちが、生々しく脳裏に再現されました。

「優しい人になりたい」「理解ある人になりたい」
「人格者になるにはほど遠いけれど、できればそういう人を目指したい・・・」
大人になってからは、漠然とそんな風に思いながら生きてきたけど
それは、トラブルを極力避ける私の性癖がそうさせていたわけです。

例えば、「優しい人になりたい」には
「優しい人でありたい」と「優しい人と思われたい(そしてトラブルを避けたい)」が
強力にくっついてしまって区別のつかない状態になっていたのです。
「あ、チャ~!! コレって、他者の意識に埋没ってヤツやんか~!!!」

私が何も気づかずに一生懸命やってたことは
他者に見られる意識で形作られた行為だったのです。
苦しいのは、うまくいかないのは、まだまだ足りないからだと、私が至らないためだと
そんな風に考えて、更に一生懸命に・・・でも、本当は・・・
苦しいのは、自分を見失っていたからに他ならないのだという結論にようやく達しました。

「見られる意識」で覆い尽くされた私の世界は、
本当なら私には見ることの出来ないはずの世界であり
ψ6・・・
偶数先手の差異の見えない意識は、時空に埋没。
時空では、あの人もこの人も自分も、同じ人間という一括り
これが同一性というヤツで、
同じ一つの時間、同じ一つの空間を共有していると思い込んで、
(確かに共有しているのですが、共有してない世界もある)
それぞれに世界があるってことが見えないわけで、
それ、すなわち苦しみの原因となっているわけで・・・

私にだって、「私が見ている世界」があるじゃないか
それは「私が見られることで作っている世界」とはまるで違う世界だ

と、そこまで気づいて
「見る」という方向と「見られる」という方向の違いを
更に上から観るという、新たな方向(直交する視線)が私の中に生まれ始めました。

しかし、しかしです。
「見る」で作る意識と「見られる」で作る意識、そこに大きな違いがあるとやっとわかったのに、その二つがそう簡単には離れてくれないのです。
二つの世界は強力にくっついていて、剥がそうにも容易には剥がれず
実際、私は長期に渡ってその作業を、感情の強烈な痛みを伴いながら進めることになりました。
そうして、外在に現象として起きてくる出来事は、本当に私の内在で起きている闘いの現われだということを、身をもって知ることになりました。

一つクリアしたなと思えた時、私は、自分の視界が確かに文字通りクリアになっていることを実感しました。
でも、クリアしたなと思ってもまた次があり、同じ課題が表現を変えて次々と現れてきて
その度にクリアして・・・ということを繰り返すようになっていたのです。

確かに、思い起こせば、以前に比べ見通しが断然良くなったことは確かです。
でも、これじゃあ全然キリがないじゃないか・・・と思うようにもなったのです。
自分でどうしようもない「感情」にいつまでも振り回されているわけにはいかないと。

何か方法があるはずだ・・・そんな風に考えを変えたとき
ふと思い浮かんだのは
「元凶は人間型ゲシュタルトにある」ということ
「モノの手前に自分がいるという認識」
これでした。

感覚としては「そういう感じ」もわかるし、頭でも理解できるのです。
でも、力が不足しているのだなと思いました。
「そういう感じ」がわかると言っても、常にそういう感覚を持っているわけではないし
理解していると言っても、一面的な理解なのに違いない。
この認識の変化をもっと確かなものにしないといけないんだ・・・と。

「思考によって認識を変え、認識を変えることによって今度は感覚を変える・・・、
そして、感覚の変化はあなたがたの感情さえも凌駕し、
人間の意識全体を全く別なものへと変容させていくのです。
意識進化とはそういうものです。」
     (by オコツト『人類が神を見る日 アドバンスト・エディション』p149)

「意識進化」とは、なんとも凄まじい響きのある言葉ですが
ここは照れている場合ではありません。
自分と関係の無い遠い世界の話ではなく、誰か他人の話でもなく
勇者が現れて全てを救ってくれるという話でもないのです。

今、自分が自分を見失って苦しいのなら、必ずそこには脱出口があるはずで
それが「思考」から始まるというのは、誰にでも当てはまる話かも知れません。
部分的に、あるいは一時的に情緒面、感情面で救われる思いをしたとしても
必ずと言っていいほど元に戻されたり、似たようなことを繰り返したりするものではないでしょうか。少なくとも私はそうでした。

しっかり確実に歩いてこれた部分は、考えてわかったことに裏付けられてきたからだし、
裏づけの足りていないところは、やはり感情を凌駕できるほどの力がないのだと思います。

あらゆる方面から接触可能なヌーソロジーですが、特にキモは「量子物理学」だといいます。
私の苦手な分野です。
でもね、そんなに専門的な理解に至らなくても(いや、それはもう私には絶対ムリだから)
ヌーソロジー的に大事なところを押さえるだけでも
全体の理解(元々得意だったところも含め)がより深まり、より広まり、
強度が増していく感があります。
前から知っていたことが、さらに確実化していくような感じです。

それに、やっぱり「それも知りたい」と思う自分もいるので
難しくても、一つ「わかった!」が増えると、とても嬉しいのです。

「他者の意識に落ち込む」というところから始めた話でしたが
ずいぶん話題がそれてきてしまいました。
でも、実はそんなにそれたわけではないような気もしているんです。

「知りたい」と思ったことが始まりで、
「知ろう」としてきたことがそのまま私の道になっているのかもしれません。

心の奥底で「知りたい」と思うことは
まるで、私を導いてくれる道標みたいなものなのだろうって思っています。

いまだに、最初に戻ってばかりの私ですが・・・。




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言葉には多様な意味があるものだから

ヌーソロジーで
「人間はモノの内部にいる。モノの外部に出よう。」
というような言い回しがされることがしばしばあると思います。

また、一方で
「物質の内部に入っていこう」
といったような言い回しがされることもしばしばあり

前後の文章を見ずに、部分的にこの言葉だけを読むと
あれ?・・・どういうこと?・・・矛盾してない?
みたいな感じにとられるかもしれませんが
前後の文脈の理解があれば、別に矛盾などしていないことがわかります。

前者の「人間はモノの内部にいる」
という場合の「モノ」とは「尺度概念」のことなんですね。
自分自身が、物体の次元(ψ1~ψ2)である「尺度世界」(いわゆる「幅」。「計量的概念」とも言えるし、いろんな言い方ができると思います)
に投げ込まれた状態で世界を見ると
そこにはたくさんの「モノ」があふれかえり、自分もまたその「モノ」と同様に
巨大な宇宙の中に存在していると認識してしまうわけですが、
巨大な宇宙という認識が、そもそも尺度概念でできていて、その「尺度の世界」から一歩も出れていないことを示しているわけです。
だから、その意味では「モノの外部に出よう」というのは、
「巨大な宇宙のもっと外に」という意味では(当然)なくて、
ψ3の発見を促す言葉になるのだと思います。

そして、もう一方の
「物質の内部に入る」というのは、今日のコーセンさんのツイートの言葉を借りれば
「かつて対象と見ていたものの中にダイブする」といった意味だと思います。

コーセンさんのツイートを引用すると・・・
「主客一致の思考を作り出すためには奥行軸を持続空間として仮定し、そこから、かつて対象と見ていたものの中にダイブし、対象の本性について持続として思考していくという順序で進んでいく。」

これ以上の私の説明は不要と言いますか、ヘタな解説はしない方がよさそうです(汗)。

(コーセンさんのツイッターはこちら

ひらたく言えば、最初に書いた二種類の「モノ(物質)の内部に入る」は、全く矛盾しないということが言いたかったのです。
ただ、前者と後者では、その意味するところの深さが違ってくるとは思いますが。
つまり、まずは前者の意味で「モノの外部」に出なければいけないということです。
後者の「物質の内部」に入るには、まずはそこからという感じです。
(このことについては、後でもう一度触れますが、いったんここで違う話題に入ります。)


他にも、ヌーソロジーで似たような例が見つかることがあります。

『シリウス革命』(P284)に書かれていた
  世界を平面に戻せ!  奥行きは幻想なのだ。

という箇所も、文章全体を読めば、そこで言う「奥行き」が『幅概念』で捉えた奥行きのことを言っていて、本来の『奥行概念』(持続)のことを指しているのでないことは一目瞭然ですね。

また、「内」「外」という言葉にしても、「内在」「外在」「内面」「外面」(人間の内(外)面だったり付帯質の内(外)面だったりと、色々あってややこしいですが、)
これは、単純に内は外と言ってオシマイというものでもありません。
よく、スピリチュアル系では
「外の世界は内側(自分の心)が映し出されたものだから、自分が変われば外側も変わる」
のようなことが言われたりしますが、ちょ、ちょっと待ってくださいと言わなければなりません。
というのは、外在世界が内在世界の写し絵だというのはわかるとしても、
しかし、私たちが普段自分の外側に見ている世界は、実は二重になっているということを知らなければならないと思うからです。
そこをすっ飛ばしていませんか~?ということです。
外に自分の内在(心)を見なくてはいけないわけで、
心というものを頭の中や胸の中にあるものだとだけ捉えていてはいけないのですね。
外に見えている世界は、「奥行(持続)」という本来の自己が見ている世界と、
「幅」という、他者から見られる視線で作られた世界に、ペラ~っと剥がすことができるのです。
そうすれば、「奥行」世界には自分の記憶(自分自身と言ってもいい)が息づいていることが見えてくると言いますか・・・。「幅(内面)」世界が、自分には見ることの出来ない後ろ側のことだったということが了解できます。

そういう意味で、先の「物質の内部」というのは、持続空間であり、私たちの心の世界であり
それは物質世界と重なって存在していて、その物質を構成する基本単位である素粒子が何を意味するのかということが見えてくるのではないかな・・・と、思ったりします。

ある意味、「素粒子は一つ」・・・「電子なら、電子は一つ」である(ヌースレクチャーDVDより)

この言葉を最初に聞いたとき、私は言い得ぬ感動で胸がいっぱいになりました。
高次元という言葉もずいぶん誤解されて使われていることが多い(次元にまで尺度概念を取り入れている)ように見受けられますので、ちょっと言いにくいのですが
あえて言えば、高次元で見える「素粒子」は、なんとも言えず美しい、たった一つのかけがえの無い「たま」だったのです。

言葉には多様な意味があるものだから、言葉尻だけを捉えると誤解も生じるでしょうが
理解しようとする意志があれば、「あれ?さっきと違う、変だ」となったときこそ
より深い理解へと導かれるチャンスにも思えます。



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