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月夜の海、朔の森

自分の悩み

自分の悩みだと思っているものの中に
自分のものでないことが、けっこう入り込んでいる。
たとえば、家族のこと、仕事のこと、健康のこと・・・
それは本当に、自分のものか?
と、問いただせば
意外にも、他人のものを横取りして(取り込んで)いる場合が多いものだ。
「ウチの夫(妻)が・・・」
「隣の人にこう言われて・・・」
「体重が減らなくて・・・」
「体がいうことをきかなくて・・・」
「頭痛がひんぱんに・・・」
「胃が弱いんです・・・」
などなどなど。

どれもこれも、自分に関わってくるものだけに
自分の悩みだと思いたくなるのは、尤もなことだ。

しかし
言い方を工夫してみると、どうだろう?
つまり、「認識を変える」ために言い方を変えるという意味なのだが。

「他人の態度や言動によって、こんなにも気持ちが上下する自分って・・・」
これで、いくらかは「(本当の)自分の悩み」の姿が見えてくる。

「世間で健康的(あるいは美しい)とされているものになろうとしている自分と
なかなかそうはなってくれない自分とのギャップに悩んでいる」
と、気が付いて
「世間的な価値観なんてどうでもいいじゃん!・・・って思ってはみても
やっぱり気になってしまう自分って・・・」
と、こうなると、また一歩「(本当の)自分の悩み」に近づくのだと思う。

病気や怪我など、肉体的な痛みを伴う場合については
「自分のもの」ではないことを取り込んで
「自分の悩み」だと勘違いしてしまうことによって生じる亀裂が
切り傷のように心を蝕み、あたかもゴミのように
積もりに積もって、とうとう痛みを発して
気づきを促してくる・・・というふうに考えられることもある。
(病気については、浅いものからかなり深いものまで
幅広い次元階層(領域)が絡んできそうなので
一概には言えないところも多分にあるが。)

痛みの本質が、本来の場所に戻ろうとする力にあるとすれば
そんなことも充分考えられるということだ。


悩みの多い人というのは、「自分のものではない」ことにまで
手を大きく広げて「問題」をかき集めているようなものかもしれない。


他人の問題だから、放っておけという話ではなくて
自分の視線からその悩みを見ると
どう変化して見えるかということが言いたかった。

二通りの解釈があるという言い方では、まだまだ足りない。
その二つの解釈は、全く異なる世界を現しているのだから。





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「ドン・ファン」シリーズでKOされた話

今年の夏は
カルロス・カスタネダの本をまとめて読んだ。
最初は『力の話』(ドンファン・シリーズでは4巻目に当たる。旧題『未知の次元』)
から入った。
というのも、このブログでしばしば紹介させていただく
アニマンダラレクチャーDVDの中で、
天海さんがその本のタイトルをおっしゃっていたからだ。
シリーズで全部読むのは大変かも・・・と思った私は
とりあえずDVDで聞いたタイトルの本を1冊だけ注文してみた。(アマゾンです)

これがけっこう面白く、続けて読みたくなり
結局最初から全部買うことにした。

1.呪術師と私 ドン・ファンの教え
2.呪術の体験 分離したリアリティー
3.呪師になる イクストランへの旅
4.未知の次元 (私が読んだのは改装版で『力の話』)
5.呪術の彼方へ 力の第二の輪
6.呪術と夢見 イーグルの贈り物
7.意識への回帰 内からの炎
8.沈黙の力 意識の処女地
9.夢見の技法 超意識への飛翔
10.呪術の実践 古代メキシコ・シャーマンの知恵
11.無限の本質 呪術師との決別

プラス 時の輪

の、全12冊。(『時の輪』は9月に入ってから読み終えた。)

これからここに書くことは、読後感想文ではないので
ドンファン・シリーズに関心のある方の役には立てそうにない。
(他のレビューサイトを当たってみてください。)

1巻から読み始めて、まず最初に驚いたのは
   進まない   
ということだった。
数ページ読んだら本を閉じ、ふううと息を吐いて目を閉じる・・・
時には数行で本を閉じることもあって
一気に読めないことに驚いた。

文章は読みやすく、内容も小説のようで面白い。
普通なら、そんなに読みにくい本ではないはずなのに
なぜか、数ページしか進まない。

しかも、座って読んでいるのに
足腰にこたえるような感覚があった。

おかしいなあ・・・
最初に読んだ4巻『力の話』は、そんなことはなかったのに・・・
と、そう思いながら、じっくり時間をかけて3巻まで読んだ。
そうして、わかった。

最初に4巻を読んだときは、よくわかってないままに
表面上だけスラスラと私は読んでいたのだ。

知らない言葉や難しい概念などは、「だいたいこうだろう」
という当たりをつけて、自分なりの想像で埋め合わせながら読んでいたのだ。

それが、私がつけた「当たり」は随分と見当違いであったことが
読み進むにつれてわかってきて、再度言葉の意味を考え直しながら
また、初めて触れる概念を自分の中にわずかずつ浸透させながら
読むことになったということだったのだ。

6巻ぐらいからは、少し読むペースも速くなったが
この辺からは徐々にボディーブローが効いてきて
8巻で、私はこてんぱんに打ちのめされた。
とは言え、読むペースはグングン上がり
一気に9巻、10巻、へと進み
11巻で、とうとうノックアウトされてしまった。

この、ボディーブロー、打ちのめされた、ノックアウト、
というのは、決して悪い意味で言っているのではない。

話の内容は非常に面白く、感動もした。
しかし、自分でもわからないところで、ものすごく強いインパクトを受けたようだった。

   私は何も知らない   

一言で言うと、これに尽きるかもしれない。

言語化するのが難しい領域の話なので
何と書いてよいやらわからないのだが
書籍中にしばしば出てくる言葉
「自己憐憫」「その裏に隠された自惚れ」に、私は滅多打ちにされた。

それに似たようなことは
私の人生の中で、しょっちゅうとは言わないまでも
何度もあった。
その度にがっくり落ち込んだものだが
今度は「私って、本当に懲りないヤツだ」というのを
まざまざと見せ付けられる思いがした。

落ち込むだけではもう済まされないのだな・・・と。

ちょうどその頃、新しいサイトを作る計画を立てていた。
詩をみんなで作っていけるような何か・・・


実は、このブログのカテゴリーにある「詩」は
ちょっと前まではカテゴリー名が「詩もどき」だった。
自分で書く詩が、とてもとても「詩」と呼べる代物でないことが
よくわかっていたから、せめて「もどき」とつけておこうと思ったのだ。
でも、それは「逃げ」だよなあ・・・とも思い直し
恥ずかしながらも「もどき」をはずして「詩」にしたという経緯がある。

私は職業柄(国語の教師をしている)、自分で書く文章や詩が
ヘタではいけないという思いがあり
その反面、上手くないことも充分承知しているものだから
どうにも勝手が悪く、逃げに走ってしまうことが多かった。

(本音を言うと、情けないのですよ。自分の文章のヘタさ具合が。)

そんな私が、「詩」を作ろうという呼びかけのサイトを作るなんて
どういう風の吹き回しかというと
結局、他者視線に囚われることからの脱却を目指したいと思ったのだ。

私自身もそうだし、もしかしたら他の人の中にも
そのあたりの葛藤(苦悩)を抱えた人もいるかもしれない。
もしそうなら、何か一つくらい役に立つことができるかもしれない・・・と。

まあ、役に立たなくてもいいのだけれど
勢いというか、ノリでサイトを作ってみた。

精神的には、ちょっと(かなり)落ち込み気味の「このごろ」だけれど
自分が書いた過去の詩や文章も
違った視線で捉えられるようになり始めている。


同じものが、視線を変えると違うものになる・・・
そしてその違うものは、初めからあったものなのだ。

日が落ちて、ツクツクボウシも鳴きやみ
いまは秋の虫の音が耳に心地よく響いている。

今日は満月なのだなあ・・・と
ふと、思う。

旧暦七月十六日
ウチの辺りでは今朝からずっと雲が広がっていて
この分だと、今夜の月は見られそうにない。
さて、そろそろ庭に出ている猫を迎えにいこう。
運がよければ、猫といっしょに月の出を見ることができるかもしれない。

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知足のつくばいと「5」のシステム

京都、龍安寺に
「知足の蹲踞(つくばい)」と呼ばれる
有名な手水鉢があります。


龍安寺のつくばい
 ↓
知足の蹲踞(つくばい)

(画像はhttp://www.brake-kaijo.com/index.php?QBlog-20130721-1&mode=category&catname=%E2%96%A0%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AB%EF%BC%AF%EF%BC%AB%E3%82%92%E5%87%BA%E3%81%99%E6%96%B9%E6%B3%95から)

(茶室前に置かれているものは模造品だそうです。
本物は秘蔵の茶室にあり、一般公開はされていないということです。)


画像を見れば一目瞭然、四方の四つの文字
「五」「隹」「疋(の上一角を取る)」「矢」を
真ん中の四角を口に見立てて、上から時計回りに読むと
「吾 唯 足 知」となり
「われ ただ たるを しる」と読めます。

うまく作ってるなあと、誰もが感心するところですが
徳川光圀(水戸黄門)の寄進だそうです。
「やはり・・・」とか「さすがは・・・」の感がありますね。


私は最初にこれを見たとき、「うまく作ってるなあ」という感想以上に
「ペンターブシステムみたい・・・」という印象を持ったのでした。
ただ、形の上だけの話ですが。

「五」で始まるところもなかなか心憎い感じで(笑)。
曼荼羅をも彷彿とさせるところがあるような・・・。

これは一見、漢語のようですが、読みの順はれっきとした日本語です。
漢語だと「知足」の順になり、「足知」とはなりませんから。
(この手水鉢の名前は「知足のつくばい」なので漢語読みを採用していますが)



さて、最初の印象「ペンターブシステム」っぽいなあと感じたのは
その形だったのですが、じっと見つめている内に色々と思うところが出てきました。

・5番目の文字(口)が、文字としては記されていない
・見えている4文字だけでは、まとまった意味を成さない
・一見4文字しか見えないが、5文字目があるということが最初の「五」で暗示されている
・5文字目に気づいても、それぞれの5つの文字が単独で持つ意味には何の脈絡もない
・5番目の文字が他の4つの文字それぞれを組み込み、全く別の4種類の文字に変化させる
・変化を遂げた4文字は、一つのまとまった(脈絡のある)一文を形成する

5番目の文字「口」は、他の4文字とは位相が違うのですね。
新たな「1」(一文という、文字より大きなシステムになる)を作るのに必須の1文字です。

ホント、うまいこと作っています!

「吾唯足るを知る」という言葉は、禅の格言とも言われていますが
こと、このつくばいに関して言えば
単に、「贅沢言わず、今あることが十分だと知れば、不満は消える」みたいな
清貧を勧める「戒め」ととってしまうのは、あまりにもったいない気がします。




ついでの話ですが
龍安寺は、枯山水の庭園としても有名な臨済宗の寺院です。
(確か、世界遺産なのですよね。)

龍安寺の石庭
(画像は上と同じサイトからお借りしています。)

この石庭は作者も作意も未だ謎なのだそうです。
白砂に大小15個の石を置いていて
石の配置は禅の精神を映しているとも、「心」という字の配置になっているとも言われ
なんだか色んな解釈があるようです。

もしも「心」という字の配置になっているとするなら・・・
「心」は4画で出来ている1文字です。
見えないもう1画が見えたとき、それが「心」の4画にそれぞれ作用を及ぼし
「心」は全く別のものに変化し、新たな「一」文字になる可能性も無きにしも非ず。
石は意志。

なんてことも夢想したりしています。



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