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月夜の海、朔の森

『西の魔女が死んだ』~銀龍草~光を必要としない花

「いい話」は大衆受けしますね。
映画『西の魔女が死んだ』も、「いい話」的な仕上がりで
ずいぶんヒットしたのではないでしょうか。

セリフやセットはなかなか原作に忠実に使われていると思いましたが
梨木香歩さんの原作好きには、ちょっと残念なところがありました。

それは銀龍草のエピソードが丸々カットされていたことです。

銀龍草は、話の流れには直接的に関係しないとしても
話の本質には欠かせない(小さいけれど強力な)アイテムだと思うのです。

中学校のクラスでいじめにあい、不登校になってしまった主人公のまいが
人里離れたおばあちゃんの家で少しずつ自分を取り戻し
元気になっていくお話なのですが
ある夜
   成長なんて、しなくたっていいじゃない   

と言う真衣に、おばあちゃんはこう答えます。

   
本当にそうですね。でも、それが魂の本質なんですから仕方がないのです   
   春になったら種から芽が出るように、それが光に向かって伸びていくように、
   魂は成長したがっているのです   

ここだけ読むと、光礼賛みたいな話なのかなと思ってしまいますが
あくまでおばあちゃんは「仕方がない」と言うのです。

そして、その話とは全く関係ないかのように、真衣が銀龍草を見つける場面があります。
銀龍草は光合成をしない植物です。
光を求めない、光を必要としない植物なのです。

銀龍草の美しさに真衣は惹かれます。
自分が最初の発見者ではないかと心を躍らせ
喜んで摘んで帰り、おばあちゃんに見せるのですが・・・
実は、おばあちゃんは銀龍草をよく知っていて、
死んだおじいちゃんが大好きな花でもあったのです。

この銀龍草は、ラストシーンでもさりげなく登場します。

銀龍草がこの作品の中で重要なキーとして使われているのは確かでしょう。
光に向かって伸びていくいう「健全な方向」に
「待った!」をかけて、単なる「光礼賛」の「いいお話」にならないように。

その銀龍草が、映画では完全にカットされて
悲しいかな、孫の怒りにオロオロし、自信をなくしていく
老いゆく祖母が描かれてしまいました。
(原作では魔女らしく、オロオロなんてしないんですけどね)

映画と原作は別物なので、映画に文句を言うつもりはありません。

ただ、映画は見たけど原作はまだという方は
原作を読んでみるのもまた一興かと・・・。


銀龍草(銀竜草、ギンリョウソウ)




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受胎といえば

「霊的受胎」と聞いても、さすがにどういうものか
実感として思い浮かべられるものはまるでありませんが
単に「受胎」であるなら
よみがえってくる思いが数々あります。

「受胎」といえば、「妊娠」
そして、受胎から出産までの妊婦時代。

私自身は、二人の子を身ごもり無事出産までいきつけましたが
途中、危ういことも苦しいことも度々ありました。
最初の子は切迫流産
二人目は切迫早産
つわりもあったし・・・
まあ、言ってみれば
妊娠したからといって
そのまま自動的に、順調に胎児が育つとは限らないということです。

思い起こされることがたくさんある中で
私にとって最も重要かつ不思議な体験は
自分の気持ちが自然と変わったということでした。

受胎の瞬間というものはまるで察知できませんでしたから
そこ(気持ちの変化のスタート地点)はわからないとしても
妊娠を知った辺りから、徐々にではありますが
自分の肉体が自分のものだという感覚がなくなりました。

それまで当たり前のように
自分の肉体は自分の所有物か、もしくは肉体が自分であるかのような
気持ちでいたと思います。
それが、少しずつ薄くなっていき、ほぼ消えました。
(とは言っても、出産して赤ん坊が外に出てしまえば元の木阿弥でしたが)

最初は、お腹の赤ちゃんのため・・・みたいな気持ちから始まったと思います。
食事も適度な運動も、精神状態を安定させることも
自分のためではなく、赤ちゃんのために・・・と。
しかし、それらの気遣いは
実は妊婦でなくとも誰もが普段から推奨されることばかり。
だけど
健康に相当気を遣っている人の「気遣い」とも何か違います。
もっとね、何と言うか・・・
無私の慈しみやら愛おしさが、先行しているみたいな感じなのですよ。
「健康」や「長寿」のような『目的』先行ではなくてね。

もうこの、無私の「慈しみ」「愛おしさ」は
自然と湧いて出てくるものだったのです。

妊婦の中には、仕事を続けていたりとか
家族の理解が薄かったりとかで
自分の中から生まれてくる、そういう気持ちを抑え
社会的な自分としてそれまで通りに生きる人も少なからずいると思います。
医療技術の発達のおかげか、医療サイドの都合もあってか
近頃は帝王切開で産んだという話も(昔に比べて)よく聞きますが
妊婦の方の(出産に備える)肉体および心の準備が万全でないということも
理由の一つとして挙げることができるかもしれません。

受胎すると、自然と湧き上がる「慈愛」の気持ち・・・奥行感覚
でも、それを抑えてしまう妊婦側の状況・・・幅に合わせる
この二つを考えたとき
ああ、もしかしたら・・・
と思いました。

人間の世界の「受胎」~「新生児出産」までの出来事を
霊的受胎から高次の自我の形成期間になぞらえることができるとするなら

・受胎しないことには新生児は生まれない。
・受胎すれば、母体の側に必ず「自然と」慈愛のようなものが湧き出てくる。
しかし
・受胎したからと言って、自動的に胎児がすくすく育つとは限らない。

母体を低次の自我として、胎児を高次の自我と仮定すると
なんだか似ているかもしれないなあと思ってしまいました。

ただ、私たちは「低次の自我」側からしか今は考えることができないのですよね。
つまり母体の側。
でも、自分の中に高次の自我が生まれてくれば(霊的受胎、顕在化)
母体と胎児の両方の意識を持つことができる(水陸両用、両生類的)
ということのようなので、ここらへんは
人間の妊娠の経験とは全く別物と考えなくてはなりません。
が、一つのイメージとしては被るところもありそうに思いました。


ついでに思い出したことですが
「つわり」の時期というのは、どうも胎児の姿形からいうと
「水から陸へ」の激動期に相当するらしいです。(三木成夫さんによると)
特にこの時期は流産の危険性も高く、五ヶ月の腹帯を締めるまでは
非常に注意の必要な時期でもあります。

いろんなところで
フラクタルに畳み込まれた次元の襞が見え隠れしているのかもしれませんね。










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自分の悩み

自分の悩みだと思っているものの中に
自分のものでないことが、けっこう入り込んでいる。
たとえば、家族のこと、仕事のこと、健康のこと・・・
それは本当に、自分のものか?
と、問いただせば
意外にも、他人のものを横取りして(取り込んで)いる場合が多いものだ。
「ウチの夫(妻)が・・・」
「隣の人にこう言われて・・・」
「体重が減らなくて・・・」
「体がいうことをきかなくて・・・」
「頭痛がひんぱんに・・・」
「胃が弱いんです・・・」
などなどなど。

どれもこれも、自分に関わってくるものだけに
自分の悩みだと思いたくなるのは、尤もなことだ。

しかし
言い方を工夫してみると、どうだろう?
つまり、「認識を変える」ために言い方を変えるという意味なのだが。

「他人の態度や言動によって、こんなにも気持ちが上下する自分って・・・」
これで、いくらかは「(本当の)自分の悩み」の姿が見えてくる。

「世間で健康的(あるいは美しい)とされているものになろうとしている自分と
なかなかそうはなってくれない自分とのギャップに悩んでいる」
と、気が付いて
「世間的な価値観なんてどうでもいいじゃん!・・・って思ってはみても
やっぱり気になってしまう自分って・・・」
と、こうなると、また一歩「(本当の)自分の悩み」に近づくのだと思う。

病気や怪我など、肉体的な痛みを伴う場合については
「自分のもの」ではないことを取り込んで
「自分の悩み」だと勘違いしてしまうことによって生じる亀裂が
切り傷のように心を蝕み、あたかもゴミのように
積もりに積もって、とうとう痛みを発して
気づきを促してくる・・・というふうに考えられることもある。
(病気については、浅いものからかなり深いものまで
幅広い次元階層(領域)が絡んできそうなので
一概には言えないところも多分にあるが。)

痛みの本質が、本来の場所に戻ろうとする力にあるとすれば
そんなことも充分考えられるということだ。


悩みの多い人というのは、「自分のものではない」ことにまで
手を大きく広げて「問題」をかき集めているようなものかもしれない。


他人の問題だから、放っておけという話ではなくて
自分の視線からその悩みを見ると
どう変化して見えるかということが言いたかった。

二通りの解釈があるという言い方では、まだまだ足りない。
その二つの解釈は、全く異なる世界を現しているのだから。





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