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月夜の海、朔の森

受胎といえば

「霊的受胎」と聞いても、さすがにどういうものか
実感として思い浮かべられるものはまるでありませんが
単に「受胎」であるなら
よみがえってくる思いが数々あります。

「受胎」といえば、「妊娠」
そして、受胎から出産までの妊婦時代。

私自身は、二人の子を身ごもり無事出産までいきつけましたが
途中、危ういことも苦しいことも度々ありました。
最初の子は切迫流産
二人目は切迫早産
つわりもあったし・・・
まあ、言ってみれば
妊娠したからといって
そのまま自動的に、順調に胎児が育つとは限らないということです。

思い起こされることがたくさんある中で
私にとって最も重要かつ不思議な体験は
自分の気持ちが自然と変わったということでした。

受胎の瞬間というものはまるで察知できませんでしたから
そこ(気持ちの変化のスタート地点)はわからないとしても
妊娠を知った辺りから、徐々にではありますが
自分の肉体が自分のものだという感覚がなくなりました。

それまで当たり前のように
自分の肉体は自分の所有物か、もしくは肉体が自分であるかのような
気持ちでいたと思います。
それが、少しずつ薄くなっていき、ほぼ消えました。
(とは言っても、出産して赤ん坊が外に出てしまえば元の木阿弥でしたが)

最初は、お腹の赤ちゃんのため・・・みたいな気持ちから始まったと思います。
食事も適度な運動も、精神状態を安定させることも
自分のためではなく、赤ちゃんのために・・・と。
しかし、それらの気遣いは
実は妊婦でなくとも誰もが普段から推奨されることばかり。
だけど
健康に相当気を遣っている人の「気遣い」とも何か違います。
もっとね、何と言うか・・・
無私の慈しみやら愛おしさが、先行しているみたいな感じなのですよ。
「健康」や「長寿」のような『目的』先行ではなくてね。

もうこの、無私の「慈しみ」「愛おしさ」は
自然と湧いて出てくるものだったのです。

妊婦の中には、仕事を続けていたりとか
家族の理解が薄かったりとかで
自分の中から生まれてくる、そういう気持ちを抑え
社会的な自分としてそれまで通りに生きる人も少なからずいると思います。
医療技術の発達のおかげか、医療サイドの都合もあってか
近頃は帝王切開で産んだという話も(昔に比べて)よく聞きますが
妊婦の方の(出産に備える)肉体および心の準備が万全でないということも
理由の一つとして挙げることができるかもしれません。

受胎すると、自然と湧き上がる「慈愛」の気持ち・・・奥行感覚
でも、それを抑えてしまう妊婦側の状況・・・幅に合わせる
この二つを考えたとき
ああ、もしかしたら・・・
と思いました。

人間の世界の「受胎」~「新生児出産」までの出来事を
霊的受胎から高次の自我の形成期間になぞらえることができるとするなら

・受胎しないことには新生児は生まれない。
・受胎すれば、母体の側に必ず「自然と」慈愛のようなものが湧き出てくる。
しかし
・受胎したからと言って、自動的に胎児がすくすく育つとは限らない。

母体を低次の自我として、胎児を高次の自我と仮定すると
なんだか似ているかもしれないなあと思ってしまいました。

ただ、私たちは「低次の自我」側からしか今は考えることができないのですよね。
つまり母体の側。
でも、自分の中に高次の自我が生まれてくれば(霊的受胎、顕在化)
母体と胎児の両方の意識を持つことができる(水陸両用、両生類的)
ということのようなので、ここらへんは
人間の妊娠の経験とは全く別物と考えなくてはなりません。
が、一つのイメージとしては被るところもありそうに思いました。


ついでに思い出したことですが
「つわり」の時期というのは、どうも胎児の姿形からいうと
「水から陸へ」の激動期に相当するらしいです。(三木成夫さんによると)
特にこの時期は流産の危険性も高く、五ヶ月の腹帯を締めるまでは
非常に注意の必要な時期でもあります。

いろんなところで
フラクタルに畳み込まれた次元の襞が見え隠れしているのかもしれませんね。










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