お知らせ(11)
詩(191)
散文詩(14)
おとがたり(98)
おはなし(8)
俳句かな?(5)
みそひともじの(10)
覚書(21)
夢(17)
如月妄想録(18)
地図と羅針盤(12)
ブログ(124)
日記(21)
猫その他(3)
未選択(0)
忍者ブログ

月夜の海、朔の森

鹿の夢から

田舎生まれ、田舎育ちのくせして、私は「野生」というものに触れる機会がなく
大人になった。
「中途半端に田舎」の町は、今の日本のほとんどを占めているかもしれない。
いくつかの都会を除くと、どこもここも似たり寄ったりの風景が続く国道や県道沿いの町。
私が生まれ育ったのも、今住んでいるのも、そんなありふれた日本の田舎町だ。

都会よりはマシというだけで、自然からは程遠い「人間の居住区」に成り果てた田舎町に
ときおり、野生が顔を出したりすることがある。

もっと若い頃、私は(田舎者ゆえの)都会への憧れと同時に、
(自然を知らないゆえの)自然(野生)への憧れを持っていた。
というのも、私の父方の家系は、どうやら「森の民」であったらしいということと
二十歳過ぎのころに、一時期、山間僻地に住まいしたことがあり、そのときに見た
山の若者たちのしなやかな身体に、言い得ぬ「美しさ」を感じたからである。

私の祖父や叔父たちは、軽々と山に登り、そこの生態をよく知っていて
私が何も知らないことがかえって不自然であるかのような気持ちにさせた。
登山とは明らかに違う、生活と密着した山への入り方だった。
野草のことも、木々のことも、けもののことも、当たり前のように知っていて
それは、もしも私が知ろうとしても、知識の詰め込みでは追いつかない
何か、とてつもなく深くて広大な時間の蓄積みたいなものが感じられた。
言ってみれば、先祖代々というのか、その土地とともに生きてきた長い歴史が
彼らの身体の中に受け継がれて生きている・・・といった感じだ。

私の父は、その辺のところはまるで失われていて(笑)、続く私も山のことは全くわからない。

そんな私だが、若い頃ほんの一時期、山間僻地と呼ばれるところに住まいしたことがある。
そこの子どもたちは、私の子ども時代とは何かが決定的に違っていた。
テレビも電話も、自動車も、その他家電製品も普通にあるから、一見すると
私の子ども時代の方が、よほど近代化されていなかったはずなのに、
自然との距離というのか、野生との距離が近い。
いや、近いとか遠いとかいう言い方は、この場合そぐわない。
その場所に行けば誰でも自然に触れられるというものではないという意味で。

現に、私はそこに住みながら、山々に囲まれていながら、人間の暮らし(私の生活)の中に、自然は一歩も入ってきてはくれなかった。

何度か、枝打ちと下草刈りのときに、山に入らせてもらったことがある。
林道は、もちろん私でも歩けるが、道のないところからは、私には普通には歩けない。
木に抱きつき、斜面を這い、ふうふう言いながら(実際は声も出ない)登る。
村の子ども達は、そんな私を見て笑いながらさっさと飛ぶように登っていく。
実際、木の根っこから根っこに跳躍しながら登るのだ。
そうして、毒蛇を見つけると、我勝ちに駆け寄り、捕まえる。
高く売れるのだそうだが、私などは、まず逃げるのにも手間取りそうだ。
そんなものだから、私は枝打ちも下草刈りも、たいした戦力にはなれず、むしろ
足手まといにしかならなかった気がする。

人の手が適度に入った森は美しいと、聞く。
開発ではなく、「森と共に生きる人」の手でなければいけないことは、言うまでもない。
過ぎているのか、足りないのかは、森自身の判断で
その判断を聞く耳を、人間が持っているうちは大丈夫なのだろう。

私に、そんな耳がないことは、若い頃にいやというほどわからせられた。
だから、今も自然や野生は憧れのままだ。
都会には、数年住んでみて、嫌気がさした。もう憧れの気持ちはない。
田舎に住みながら、海や山や川をすぐ目の前に見ながら
自然との隔たりをこれでもかというほどに感じる。
しかし、この立ち位置が、私を私であらしめていることも事実だ。

昨夜、鹿の夢を見て、そんなことを思った。


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


拍手[0回]

PR