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月夜の海、朔の森

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「ドン・ファン」シリーズでKOされた話

今年の夏は
カルロス・カスタネダの本をまとめて読んだ。
最初は『力の話』(ドンファン・シリーズでは4巻目に当たる。旧題『未知の次元』)
から入った。
というのも、このブログでしばしば紹介させていただく
アニマンダラレクチャーDVDの中で、
天海さんがその本のタイトルをおっしゃっていたからだ。
シリーズで全部読むのは大変かも・・・と思った私は
とりあえずDVDで聞いたタイトルの本を1冊だけ注文してみた。(アマゾンです)

これがけっこう面白く、続けて読みたくなり
結局最初から全部買うことにした。

1.呪術師と私 ドン・ファンの教え
2.呪術の体験 分離したリアリティー
3.呪師になる イクストランへの旅
4.未知の次元 (私が読んだのは改装版で『力の話』)
5.呪術の彼方へ 力の第二の輪
6.呪術と夢見 イーグルの贈り物
7.意識への回帰 内からの炎
8.沈黙の力 意識の処女地
9.夢見の技法 超意識への飛翔
10.呪術の実践 古代メキシコ・シャーマンの知恵
11.無限の本質 呪術師との決別

プラス 時の輪

の、全12冊。(『時の輪』は9月に入ってから読み終えた。)

これからここに書くことは、読後感想文ではないので
ドンファン・シリーズに関心のある方の役には立てそうにない。
(他のレビューサイトを当たってみてください。)

1巻から読み始めて、まず最初に驚いたのは
   進まない   
ということだった。
数ページ読んだら本を閉じ、ふううと息を吐いて目を閉じる・・・
時には数行で本を閉じることもあって
一気に読めないことに驚いた。

文章は読みやすく、内容も小説のようで面白い。
普通なら、そんなに読みにくい本ではないはずなのに
なぜか、数ページしか進まない。

しかも、座って読んでいるのに
足腰にこたえるような感覚があった。

おかしいなあ・・・
最初に読んだ4巻『力の話』は、そんなことはなかったのに・・・
と、そう思いながら、じっくり時間をかけて3巻まで読んだ。
そうして、わかった。

最初に4巻を読んだときは、よくわかってないままに
表面上だけスラスラと私は読んでいたのだ。

知らない言葉や難しい概念などは、「だいたいこうだろう」
という当たりをつけて、自分なりの想像で埋め合わせながら読んでいたのだ。

それが、私がつけた「当たり」は随分と見当違いであったことが
読み進むにつれてわかってきて、再度言葉の意味を考え直しながら
また、初めて触れる概念を自分の中にわずかずつ浸透させながら
読むことになったということだったのだ。

6巻ぐらいからは、少し読むペースも速くなったが
この辺からは徐々にボディーブローが効いてきて
8巻で、私はこてんぱんに打ちのめされた。
とは言え、読むペースはグングン上がり
一気に9巻、10巻、へと進み
11巻で、とうとうノックアウトされてしまった。

この、ボディーブロー、打ちのめされた、ノックアウト、
というのは、決して悪い意味で言っているのではない。

話の内容は非常に面白く、感動もした。
しかし、自分でもわからないところで、ものすごく強いインパクトを受けたようだった。

   私は何も知らない   

一言で言うと、これに尽きるかもしれない。

言語化するのが難しい領域の話なので
何と書いてよいやらわからないのだが
書籍中にしばしば出てくる言葉
「自己憐憫」「その裏に隠された自惚れ」に、私は滅多打ちにされた。

それに似たようなことは
私の人生の中で、しょっちゅうとは言わないまでも
何度もあった。
その度にがっくり落ち込んだものだが
今度は「私って、本当に懲りないヤツだ」というのを
まざまざと見せ付けられる思いがした。

落ち込むだけではもう済まされないのだな・・・と。

ちょうどその頃、新しいサイトを作る計画を立てていた。
詩をみんなで作っていけるような何か・・・


実は、このブログのカテゴリーにある「詩」は
ちょっと前まではカテゴリー名が「詩もどき」だった。
自分で書く詩が、とてもとても「詩」と呼べる代物でないことが
よくわかっていたから、せめて「もどき」とつけておこうと思ったのだ。
でも、それは「逃げ」だよなあ・・・とも思い直し
恥ずかしながらも「もどき」をはずして「詩」にしたという経緯がある。

私は職業柄(国語の教師をしている)、自分で書く文章や詩が
ヘタではいけないという思いがあり
その反面、上手くないことも充分承知しているものだから
どうにも勝手が悪く、逃げに走ってしまうことが多かった。

(本音を言うと、情けないのですよ。自分の文章のヘタさ具合が。)

そんな私が、「詩」を作ろうという呼びかけのサイトを作るなんて
どういう風の吹き回しかというと
結局、他者視線に囚われることからの脱却を目指したいと思ったのだ。


まあ、誰の役にも立たないだろうけど
勢いというか、ノリでサイトを作ってみた。

精神的には、ちょっと(かなり)落ち込み気味の「このごろ」だけれど
自分が書いた過去の詩や文章も
違った視線で捉えられるようになり始めている。


同じものが、視線を変えると違うものになる・・・
そしてその違うものは、初めからあったものなのだ。

日が落ちて、ツクツクボウシも鳴きやみ
いまは秋の虫の音が耳に心地よく響いている。

今日は満月なのだなあ・・・と
ふと、思う。

旧暦七月十六日
ウチの辺りでは今朝からずっと雲が広がっていて
この分だと、今夜の月は見られそうにない。
さて、そろそろ庭に出ている猫を迎えにいこう。
運がよければ、猫といっしょに月の出を見ることができるかもしれない。

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知足のつくばいと「5」のシステム

京都、龍安寺に
「知足の蹲踞(つくばい)」と呼ばれる
有名な手水鉢があります。


龍安寺のつくばい
 ↓
知足の蹲踞(つくばい)

(画像はhttp://www.brake-kaijo.com/index.php?QBlog-20130721-1&mode=category&catname=%E2%96%A0%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AB%EF%BC%AF%EF%BC%AB%E3%82%92%E5%87%BA%E3%81%99%E6%96%B9%E6%B3%95から)

(茶室前に置かれているものは模造品だそうです。
本物は秘蔵の茶室にあり、一般公開はされていないということです。)


画像を見れば一目瞭然、四方の四つの文字
「五」「隹」「疋(の上一角を取る)」「矢」を
真ん中の四角を口に見立てて、上から時計回りに読むと
「吾 唯 足 知」となり
「われ ただ たるを しる」と読めます。

うまく作ってるなあと、誰もが感心するところですが
徳川光圀(水戸黄門)の寄進だそうです。
「やはり・・・」とか「さすがは・・・」の感がありますね。


私は最初にこれを見たとき、「うまく作ってるなあ」という感想以上に
「ペンターブシステムみたい・・・」という印象を持ったのでした。
ただ、形の上だけの話ですが。

「五」で始まるところもなかなか心憎い感じで(笑)。
曼荼羅をも彷彿とさせるところがあるような・・・。

これは一見、漢語のようですが、読みの順はれっきとした日本語です。
漢語だと「知足」の順になり、「足知」とはなりませんから。
(この手水鉢の名前は「知足のつくばい」なので漢語読みを採用していますが)



さて、最初の印象「ペンターブシステム」っぽいなあと感じたのは
その形だったのですが、じっと見つめている内に色々と思うところが出てきました。

・5番目の文字(口)が、文字としては記されていない
・見えている4文字だけでは、まとまった意味を成さない
・一見4文字しか見えないが、5文字目があるということが最初の「五」で暗示されている
・5文字目に気づいても、それぞれの5つの文字が単独で持つ意味には何の脈絡もない
・5番目の文字が他の4つの文字それぞれを組み込み、全く別の4種類の文字に変化させる
・変化を遂げた4文字は、一つのまとまった(脈絡のある)一文を形成する

5番目の文字「口」は、他の4文字とは位相が違うのですね。
新たな「1」(一文という、文字より大きなシステムになる)を作るのに必須の1文字です。

ホント、うまいこと作っています!

「吾唯足るを知る」という言葉は、禅の格言とも言われていますが
こと、このつくばいに関して言えば
単に、「贅沢言わず、今あることが十分だと知れば、不満は消える」みたいな
清貧を勧める「戒め」ととってしまうのは、あまりにもったいない気がします。




ついでの話ですが
龍安寺は、枯山水の庭園としても有名な臨済宗の寺院です。
(確か、世界遺産なのですよね。)

龍安寺の石庭
(画像は上と同じサイトからお借りしています。)

この石庭は作者も作意も未だ謎なのだそうです。
白砂に大小15個の石を置いていて
石の配置は禅の精神を映しているとも、「心」という字の配置になっているとも言われ
なんだか色んな解釈があるようです。

もしも「心」という字の配置になっているとするなら・・・
「心」は4画で出来ている1文字です。
見えないもう1画が見えたとき、それが「心」の4画にそれぞれ作用を及ぼし
「心」は全く別のものに変化し、新たな「一」文字になる可能性も無きにしも非ず。
石は意志。

なんてことも夢想したりしています。



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梅原猛さんの本に出会ったこと

学生の頃、私は歴史の勉強が苦手だった。
年号は覚えられず、語呂合わせに頼るため、時代の流れや人間関係がいっこうにつかめない。
歴史物の本を読むのは嫌いではないが、教科書は読んでも頭に入ってこなかった。
授業を聞いても耳の外側で音が鳴っている感じ。

それでもテストがあるし、大学受験にも必須だったから
いやいやながらも勉強して、まあ常識程度には日本史、世界史ともになんとか知っていった。

ところが、である。
結婚をし、子育ても一段落した頃、図書館で目に留まった梅原猛さんの『隠された十字架』が
私の歴史に対する先入観を一掃してくれた。
私は夢中になってそれを読み、続けて同著『水底の歌』を読んだ。
(そのあとも続々と漁るように読んだ。)

本の内容を軽く説明すると
『隠された十字架』は聖徳太子、『水底の歌』は柿本人麻呂についての
それまでの常識を覆す、全く新しい見方で真相に迫る本だった。

これが本当だとすると、教科書の書き換えはもちろんのこと、歴史自体が書き換えられるほどの、社会的に大きな変革を起こすことになる。

それぞれの本の内容については、もし興味がおありの方はご自分で当たっていただくとして
梅原さんの本から私が受けたショックについて少し書いておきたい。

学会が認定している常識的な「歴史」といえども、実際にどうだったかは時を遡ることでもしない限り確認できない。しかし、多くの学者の手によって、緻密な検証を経て「おおむね、大枠はこうであろう」とされているのが、一般常識の「歴史」である。

ところが、そこに梅原さんはメスをいれていく。そのメスの切っ先は、梅原さん自身の中から出てくる「何か違う」「何か妙だ」という感覚だったようだ。
マンガや歴史小説などでは、歴史上の人物や事件を題材に(アレンジして)架空の物語を作っていくが、それは、「架空ですよ」という前提がある。
梅原さんの場合、そうではない。自分の「感じ」を検証し始めるのである。
そうして、専門の歴史学者では思いつかない盲点をも抉り出していく。

梅原さんは歴史学者ではなく哲学者である。ニヒリズムを超えて人生を肯定するために「笑い」の哲学を目指したのだそうだ。(寄席に通い、藤山寛美などの芸人を研究対象とした論文も書いた。)

そんな(机上の論を好まない)梅原さんだからこそ、歴史学会では認められない(論外)の論を展開できたのかもしれない。


私が梅原さんの本から学んだ最も大事なことは
「自分の感覚を大事にする」ということだ。
そして、その感覚から生まれてくる「妄想」の虜には決してならないということ
ルサンチマンに陥らないということだった。

妄想に取り付かれてしまっては、検証ができなくなる。
ルサンチマンが妄想の中で暴れ出す。(歴史小説などでこの辺の理解の浅いものは物語に深みがなくなっていく気がする。)

私は、それまで、学校で教わったことを特に疑いもせず(特に強く信じたりもせず)ただ「知ってるよ、それ」という態度で生きてきた。
梅原さんの本を読んだ時、「それではいかんのだ!」と、喝を入れられた気がした。

「もっとお前は、何か感じているだろう?」
「感じているものが、あるだろう?」
そんな声が聞こえてきそうだった。

梅原さんのように、しっかり検証して文章にしろとか、そんなことではなく
自分の中で、ないがしろにしていた「気持ち」に気づけよ・・・ということだった。

「どちらの方がしっくりくる?」
「どちらの方が自分が生きている感じがする?」
こう問われたのだった。

私がそれまで知っていた聖徳太子と、『隠された十字架』の聖徳太子・・・
私がそれまで抱いていた柿本人麻呂像と、『水底の歌』の柿本人麻呂像・・・

まるで別物と言わざるを得ない。
聖徳太子も、人麻呂も、本の中から私に向かって語りかけてくるのだ。
小説でもないのに。
語りかけるといっても、それは「黙って」語りかけるのだ。
相手は、私が生きているということを認めているのだなと思った。
相手って、誰?
それはわからない。
おそらく、私の中にいる何者か・・・だ。

梅原さんの説が絶対正しいと言うつもりはない。
問題は、正しいか間違っているか、あるいは、どちらがより正しいか・・・
ではなく、私が生きていることを思い出させてくれるのは何か?ということだった。

簡単に言えば、ワクワクするものであったり
興味を持てるもの、すごく好きなもの、そんな言い方もできるかもしれない。

梅原さん自身が、自分の中の声に忠実だったのだろう。
抑えることのできない衝動を、ただの衝動で済ませることなく
人をして「梅原日本学」と呼ばしむるまで、昇華させたのには
心から驚嘆し、敬意を抱いている。

最近の著作にはもう触れていないが、あのころ梅原さんから受けたショックは
私の貴重な財産になっている。









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