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月夜の海、朔の森

神無月(旧暦)に入って思うこと

前に記事を書いてから、二ヶ月近くも経ってしまいました。
もう11月なのですね。(今日は旧暦神無月三日)

8月の終わりごろから10月初めにかけて
私はブログそっちのけで、あるものを書いていました。
それは・・・
『あなただけの物語』ということで
注文を受けて物語を書いていたのです。
合計9人の方から依頼があり、九つの物語を書きました。
そのほとんどは童話の形をとりました。
どの方も、喜んで読んでくださって、書いた私はほっと一安心。
有料でやっていましたから、その意味でも緊張しましたが、
ブログと違い、「誰が読むのかがはっきりわかっている」という現実感が濃くて
それは、なかなかに楽しい経験でした。

書いていくうちに、わかってきたことですが
「癒し」が求められている昨今、
今の時代の「癒し」の意味のほとんどは「承認欲求」が満たされることであり
「他者」による「承認」は、さらなる「飢(カツ)え」を生産し、その行き着く先にはキリがない
だからといって
「自分」で「自分」を「承認」するのは、とんでもなく難しいということでした。
ただの「自惚れ」ではダメなのです。
だからこそ他者からの一言が欲しくなったりする。
でも、そういうことは一時的に満たされるだけで、
「満タンになったから、さ、次、自己実現欲求に行こうか」
とはならないわけで・・・。
どこかで、他者視線から自己視線に移行するポイントを見つけなくてはいけない。

映画や小説、マンガの世界では、主人公がそのポイントを見つけ、自己承認していく道のりを
主人公の視点に読者が入って、追体験することが可能です。当然、作者は登場人物すべてを追体験しているわけです。

そんなことを思いながら、『あなただけの物語』を、九つ続けて書きました。
どこまで書けたかは不明ですが、
読んでくださった方々は、私の予想を超えて喜んでくださったので
少しは、そんなところも書けていたのかなと思っている次第です。

褒められたり、好かれたり・・・そんなことで心の安定を謀ろうなんて
「癒し」ならぬ「卑しい」ですよね。

そういう世界からの脱出こそが、今、必要なんではないかなと
思っているところです。




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昨夜は、久々に気合の入った雷が鳴り響いた。
いや、雷そのものは、もちろん、さほど珍しくはない。
「久々」と書いたのは、昨夜の雷が十年前の雷を彷彿とさせるものがあったからだ。

十年前、この地方で、異常に長時間にわたって雷雲が停滞するということがあった。
当時八十歳代の、近所の老人たちが口々に
「長年生きてきたけど、あんなに長いこと鳴り続けた雷は、経験したことがない。」
と、言っていた。

いったい何時間続いたのだろうか・・・5~6時間などではとうていなかったはずだ。
ちょうどその日は、たまたま子どもの学校のPTAの会合があったものだから
その夜のことはよく覚えている。
途中、停電し、懐中電灯の明かりの元で会議を続けた。
雨の方は、激しく降ったり収まったりを繰り返す中、会議が終わって車に乗り込み
ヘッドライトをつけたときは、なんだかホッと一安心したものだ。

帰り道、信号機も道路沿いの店舗もすべて停電していたから(当然月明かりも星明かりもない)
本当に真っ暗な夜道に、稲光が幾筋も走り、雷鳴がとどろく中を
恐る恐る運転して帰ったのを覚えている。

雷は、夜中じゅう鳴っていた。

翌朝ラジオのニュースで、秋篠宮家にご長男誕生の知らせを聞いたとき、なんだかわからないが鳥肌が立ったのを思い出す。

そして昨夜、久々に気合の入った雷が鳴り続け、十年前のあの夜のことを思い出しながら眠った。さすがに十年前の時ほど長くもなかったし、停電もしなかったのだが、なんというか、その雷の雰囲気があの時と似ていたのだ。

そして、今朝、ネットのニュースで
「秋篠宮悠仁親王の十歳の誕生日」と出ていたのを見て
ああ、そうか、あれからピッタリ十年経ったのだと気が付いた。

日付までは覚えていなかったから、ちょうど同じ日というのは、ちょっとした驚きだった。

この十年の間に、日本ではとんでもなく大きな出来事(災害や事故、事件)がいくつも起きている。
海外でも同様に多くのとんでもない出来事が起きていて、今もまだ起き続けている。

願わくば、それら多くの出来事がその裏に秘めている、本当の、私たちが辿るべき道筋が
あの雷光とともに見出せますように。



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昔話やわらべ歌には、「裏」がさりげなく入り込んでいるような気が、ふと、した。


思いつくままに挙げると・・・
  
裏の畑でポチがなく  
で始まる『花咲か爺さん』の歌や
草履隠しという子どもの遊び歌にも
  裏からまわって三軒目   とか
他にも
  どれにしようかな、裏の神様の言う通り   
などがある。ただし、この歌は地方によっては「天の神様」の場合もあり、
もしかしたら、そちらの方が多いかもしれない。
(私の育った地方では「裏の神様」だった)
また
  裏の権兵衛さんはいつ見ても涙がぼうろぼろ   
で始まる手遊び歌も、懐かしく思い出す。
(権兵衛さんというのは、名無しの権兵衛でも知られる通り
固有名詞ではなく、どこぞのだれぞ(男性)ぐらいの意味)

「表」と違って、この「裏」には、なにやら独特の、「暗くて隠された場所」のイメージが付きまとう。
「うら」という音自体に、一種独特のイメージがついている気もする。

「人生の裏街道」「裏口入学」なんて言い方もあるし、
「うら泣き」なんて言う、顔には出さず心で泣く泣き方や(心泣きと書いてうら泣きと読む)
「うら寂しい」「うら悲しい」など、はっきりとした理由はわからないがなんとなく・・・
の意味で「うら」が使われることもある。
「占い」の「うら」も、見えないところ(だから知りたい)に焦点をあてていく方法だし
「恨む」「恨み」の「うら」にも、暗くて光の当たらない雰囲気がよく合っている。

日常の中に入り込んでいる「うら」という場所があり
それが、「裏口」「裏庭」「裏道」「裏木戸」として
案外生活にゆとりを生み出している気もする。
「裏」のない家より、「裏」のある家の方がなんとなく情緒ありげに思うのは私だけか?

同じ「うら」でも「浦」は全く意味の異なる言葉だが
(海辺や、入り江のことを指す)
深く辿っていけば、意外にも、どこかに共通の場所性が見つかるかもしれない。

浦島太郎は、「裏島太郎」かもしれないな・・・などと
今日もまた、夢想ばかりしている。



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