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月夜の海、朔の森

昨夜は、久々に気合の入った雷が鳴り響いた。
いや、雷そのものは、もちろん、さほど珍しくはない。
「久々」と書いたのは、昨夜の雷が十年前の雷を彷彿とさせるものがあったからだ。

十年前、この地方で、異常に長時間にわたって雷雲が停滞するということがあった。
当時八十歳代の、近所の老人たちが口々に
「長年生きてきたけど、あんなに長いこと鳴り続けた雷は、経験したことがない。」
と、言っていた。

いったい何時間続いたのだろうか・・・5~6時間などではとうていなかったはずだ。
ちょうどその日は、たまたま子どもの学校のPTAの会合があったものだから
その夜のことはよく覚えている。
途中、停電し、懐中電灯の明かりの元で会議を続けた。
雨の方は、激しく降ったり収まったりを繰り返す中、会議が終わって車に乗り込み
ヘッドライトをつけたときは、なんだかホッと一安心したものだ。

帰り道、信号機も道路沿いの店舗もすべて停電していたから(当然月明かりも星明かりもない)
本当に真っ暗な夜道に、稲光が幾筋も走り、雷鳴がとどろく中を
恐る恐る運転して帰ったのを覚えている。

雷は、夜中じゅう鳴っていた。

翌朝ラジオのニュースで、秋篠宮家にご長男誕生の知らせを聞いたとき、なんだかわからないが鳥肌が立ったのを思い出す。

そして昨夜、久々に気合の入った雷が鳴り続け、十年前のあの夜のことを思い出しながら眠った。さすがに十年前の時ほど長くもなかったし、停電もしなかったのだが、なんというか、その雷の雰囲気があの時と似ていたのだ。

そして、今朝、ネットのニュースで
「秋篠宮悠仁親王の十歳の誕生日」と出ていたのを見て
ああ、そうか、あれからピッタリ十年経ったのだと気が付いた。

日付までは覚えていなかったから、ちょうど同じ日というのは、ちょっとした驚きだった。

この十年の間に、日本ではとんでもなく大きな出来事(災害や事故、事件)がいくつも起きている。
海外でも同様に多くのとんでもない出来事が起きていて、今もまだ起き続けている。

願わくば、それら多くの出来事がその裏に秘めている、本当の、私たちが辿るべき道筋が
あの雷光とともに見出せますように。



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昔話やわらべ歌には、「裏」がさりげなく入り込んでいるような気が、ふと、した。


思いつくままに挙げると・・・
  
裏の畑でポチがなく  
で始まる『花咲か爺さん』の歌や
草履隠しという子どもの遊び歌にも
  裏からまわって三軒目   とか
他にも
  どれにしようかな、裏の神様の言う通り   
などがある。ただし、この歌は地方によっては「天の神様」の場合もあり、
もしかしたら、そちらの方が多いかもしれない。
(私の育った地方では「裏の神様」だった)
また
  裏の権兵衛さんはいつ見ても涙がぼうろぼろ   
で始まる手遊び歌も、懐かしく思い出す。
(権兵衛さんというのは、名無しの権兵衛でも知られる通り
固有名詞ではなく、どこぞのだれぞ(男性)ぐらいの意味)

「表」と違って、この「裏」には、なにやら独特の、「暗くて隠された場所」のイメージが付きまとう。
「うら」という音自体に、一種独特のイメージがついている気もする。

「人生の裏街道」「裏口入学」なんて言い方もあるし、
「うら泣き」なんて言う、顔には出さず心で泣く泣き方や(心泣きと書いてうら泣きと読む)
「うら寂しい」「うら悲しい」など、はっきりとした理由はわからないがなんとなく・・・
の意味で「うら」が使われることもある。
「占い」の「うら」も、見えないところ(だから知りたい)に焦点をあてていく方法だし
「恨む」「恨み」の「うら」にも、暗くて光の当たらない雰囲気がよく合っている。

日常の中に入り込んでいる「うら」という場所があり
それが、「裏口」「裏庭」「裏道」「裏木戸」として
案外生活にゆとりを生み出している気もする。
「裏」のない家より、「裏」のある家の方がなんとなく情緒ありげに思うのは私だけか?

同じ「うら」でも「浦」は全く意味の異なる言葉だが
(海辺や、入り江のことを指す)
深く辿っていけば、意外にも、どこかに共通の場所性が見つかるかもしれない。

浦島太郎は、「裏島太郎」かもしれないな・・・などと
今日もまた、夢想ばかりしている。



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古文という扉

高校では、普通科だけでなく実業科(農業科、工業科などの専門科)でも
国語という教科の中で「古典」を履修することになっている。
ただし、「古典」という科目としての履修とは限らず、「国語総合」という科目の中に組み入れられている場合も多い。
何にせよ、中学では、ほんの軽いタッチで古文や漢文に触れるだけという「古典」の扱いが
高校では、より深く学ぶ機会を得ることになる。

日本の古典文学を知るというだけなら、口語訳(現代語訳)されたものを学べばいいのだろうが
そうはいかない。
そこは、原文そのままとまではいかなくても、せめて漢字仮名混じり文で句読点を補ったものを読むことが望ましい。
なぜなら、日本語には「音」「音の流れ」の中に意味以上の大切なものが含まれているからだ。
いや、これは日本語に限った話ではないだろう。どの国の言語でも、言葉は「音」と共にある。
日本語を母語として育った私たちは、この身の中に身体感覚の一つとして、連綿と続く日本語の「音」の流れを有しているはずなのだ。

中学までは、しっかり現代の日本語を学ぶ機会を得る必要があると思うから、古典に関して割く時間は、学校教育の中ではあまりないだろうし、また、年齢からみた発達という見地からも、日頃自分たちが使わないような馴染みの薄い古典よりは、現代日本語に多く触れ、使いこなせるようになったほうがいい。
しかし、十代後半、自分の中に「自分ではあるけれども、なんだかよくわからないもう一人の自分」に気づき始めるとき、「日本語の精神」とも言うべき一すじの光が自分を貫いていて、それこそがこれまでの自分を支え、これからの自分を支えていく拠り所なのだと、知るまではいかなくても、無自覚ながらにも、その拠り所の扉をほんの少しでもいいから開いてほしいと、私なんかは思う。

悲しいかな、現行の高校の古典学習の中には「文法」が大きく立ちはだかっていて
これが、その扉の前で通せんぼしているように思える。
やれ「動詞の活用」「助動詞の活用」「助詞の種類の見分け方」・・・
日本語文法は、実際の生きた言語に即していないことがままあって、
多くの学生は、ここで古典が嫌いになるみたいだ。

古典では「主語や目的語が省略されることが多い」とか
二重敬語、二方面敬語であるとかが、それを使っていた人の心を無視して
言語のルールとして解釈するために、「覚える文法」と化してしまっている。
そもそも「主語」「述語」などのくくり方からして、日本語的ではない。
文法構造は、その時代地域に生きている人の心の構造でもある。
相手に合わせて一人称さえ千変万化に姿を変える柔軟性を持った日本語。
こういった、日本語の構造の中に隠された日本人の意識のありかたを捉えていかない限り
生きた文法は見つからないと思う。

「音」「音の流れ」と、文法構造、そしてそこに生きた人たちの心は、一致していなければならないはずなのだ。

偉そうにここまで書いてきたけれど、私にも
「じゃ、どうすればいい?」が、わからない。

一つの大きなヒントとして、昌原容成さんの著書『日本語は神である』は、素晴らしい本だと思った。
なんとか、このあたりに突破口がないものか。
私たちが日頃、自分の思いや考えを現すのに最も大きな比重で使用する日本語、
現すだけではない、その言語構造の中で思考している、そんな重要な日本語文法について
学者任せではなく、私のような一介の素人凡人でも、考え始めていい時期にきているのかもしれない。




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