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月夜の海、朔の森

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古文という扉

高校では、普通科だけでなく実業科(農業科、工業科などの専門科)でも
国語という教科の中で「古典」を履修することになっている。
ただし、「古典」という科目としての履修とは限らず、「国語総合」という科目の中に組み入れられている場合も多い。
何にせよ、中学では、ほんの軽いタッチで古文や漢文に触れるだけという「古典」の扱いが
高校では、より深く学ぶ機会を得ることになる。

日本の古典文学を知るというだけなら、口語訳(現代語訳)されたものを学べばいいのだろうが
そうはいかない。
そこは、原文そのままとまではいかなくても、せめて漢字仮名混じり文で句読点を補ったものを読むことが望ましい。
なぜなら、日本語には「音」「音の流れ」の中に意味以上の大切なものが含まれているからだ。
いや、これは日本語に限った話ではないだろう。どの国の言語でも、言葉は「音」と共にある。
日本語を母語として育った私たちは、この身の中に身体感覚の一つとして、連綿と続く日本語の「音」の流れを有しているはずなのだ。

中学までは、しっかり現代の日本語を学ぶ機会を得る必要があると思うから、古典に関して割く時間は、学校教育の中ではあまりないだろうし、また、年齢からみた発達という見地からも、日頃自分たちが使わないような馴染みの薄い古典よりは、現代日本語に多く触れ、使いこなせるようになったほうがいい。
しかし、十代後半、自分の中に「自分ではあるけれども、なんだかよくわからないもう一人の自分」に気づき始めるとき、「日本語の精神」とも言うべき一すじの光が自分を貫いていて、それこそがこれまでの自分を支え、これからの自分を支えていく拠り所なのだと、知るまではいかなくても、無自覚ながらにも、その拠り所の扉をほんの少しでもいいから開いてほしいと、私なんかは思う。

悲しいかな、現行の高校の古典学習の中には「文法」が大きく立ちはだかっていて
これが、その扉の前で通せんぼしているように思える。
やれ「動詞の活用」「助動詞の活用」「助詞の種類の見分け方」・・・
日本語文法は、実際の生きた言語に即していないことがままあって、
多くの学生は、ここで古典が嫌いになるみたいだ。

古典では「主語や目的語が省略されることが多い」とか
二重敬語、二方面敬語であるとかが、それを使っていた人の心を無視して
言語のルールとして解釈するために、「覚える文法」と化してしまっている。
そもそも「主語」「述語」などのくくり方からして、日本語的ではない。
文法構造は、その時代地域に生きている人の心の構造でもある。
相手に合わせて一人称さえ千変万化に姿を変える柔軟性を持った日本語。
こういった、日本語の構造の中に隠された日本人の意識のありかたを捉えていかない限り
生きた文法は見つからないと思う。

「音」「音の流れ」と、文法構造、そしてそこに生きた人たちの心は、一致していなければならないはずなのだ。

偉そうにここまで書いてきたけれど、私にも
「じゃ、どうすればいい?」が、わからない。

一つの大きなヒントとして、昌原容成さんの著書『日本語は神である』は、素晴らしい本だと思った。
なんとか、このあたりに突破口がないものか。
私たちが日頃、自分の思いや考えを現すのに最も大きな比重で使用する日本語、
現すだけではない、その言語構造の中で思考している、そんな重要な日本語文法について
学者任せではなく、私のような一介の素人凡人でも、考え始めていい時期にきているのかもしれない。




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ラベンダー

今日は、地区の溝掃除の日で、朝から大勢(一軒に最低一人は参加)で
地区内の溝さらいをした。
ウチのような田んぼの多い田舎では、田植えの前にいっせいに用水路の掃除をするのは
よくあることだろう。
掃除といっても、ゴミ拾いとかではなくて(ゴミはほとんど落ちていない)
溝に生えた雑草ごと「ぬ」や土をさらうのだ。
「ぬ」というのは、ええっと、泥?・・・どぶ状態になった泥?
他の地方では何というのか知らない。

農家でない家からも、地区の行事として参加するから
私のように農業やってない者は、普段使い慣れない角スコなんかを2~3時間も使って作業すると、当然、筋肉痛と筋肉疲労からくる頭痛のたぐいに、後から見舞われること必至。
長靴なんてのも、普段履き慣れていないのに加え、ちょっとばかりサイズも小さめ
(10年以上前に買った時より足が大きくなったらしくて)で、これもけっこう
後から堪える。

そんなわけで、午後に30分ばかり昼寝をしてしまった。
目が覚めると、案の定頭痛がする。
若干日射病くさいところもある。もちろん帽子は被っていたし、水分も充分摂ったけれど
なかなか思うようにはいかない。

そのとき、ふと思いついたのは「ラベンダー」だった。
私はふだん、ラベンダーで化粧水を作って使っている。
ラベンダーには鎮痛作用もそこそこある。
よしよし、今日はラベンダーづくしでいこう
と、思った。

さっそくお湯を沸かしてラベンダーティーを作る。
レモンをカットして、一枚は顔にのっけてパック。(数秒ずつ移動させれば1枚で足りた)
その間にティーができる。
ラベンダーの匂いって、大好きなのよね。
色もね、すごくやさしい色。薄い桃色に近い・・・まあラベンダー色なのだけれど。
そこへレモンをギュっと搾って蜂蜜をたっぷり入れて
飲む。

それから・・・レモン汁のついた顔(笑)を洗って
自家製ラベンダー化粧水をパタパタぬると・・・
おおおっ!頭痛が、頭痛が消えていく~。
何度もおでこにパタパタ。こめかみにパタパタ。
耳の後ろにパタパタ。首の後ろにパタパタ。
そうそう、腕にもパタパタ。脚にもパタパタ。
効く、効く~。

おかげで大事に至らずに済んだ(笑)。

ラベンダーティーの残り(蜂蜜の入っていないの)は、今夜のお風呂に入れて
薬草風呂にする予定。

だいぶ元気を取り戻したので、庭に出て、この前から乾かしていた
ラベンダー、ローズマリーなどなどを取り入れて瓶に詰めた。

これでまた、しばらく化粧水やティー、薬草風呂の材料に困らない。
いざという時にも役に立つ。



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部屋の乱れで心のチェック

「服装の乱れは 心の乱れ」なんて、あんまりいい気持ちのする言葉ではないが
部屋が片付かなくなってくると、精神的にパワーが落ちているサインととって、ほぼ間違いないなあと思う。

子どものころに母がよく言っていたのだけれど
「玄関を美しく飾っていても、台所と便所がきれいでない家の人とは
あんまり深く付き合っちゃいけないよ」

母のこの言葉は、他人に対してよりも、私が自分自身に対して自戒するために反芻することが多い。
全く、その通りというか、精神的に落ち込み始めると、まず部屋の汚さとか散らかりようが
気にならなくなってくる。これは、他の(気になる)ことで頭がいっぱいで、掃除なんかに手が回らないという時期を少し越えて、散らかった状態にすっかり慣れて、それが当たり前になってしまうからだ。

でも、不思議なもので、また心が元気になってくると、だんだん部屋の散らかりようが気になり始める。そして、ある日、「掃除するぞ!」となって、片付け大掃除で体を動かしているうちに
すっかり精神的にも元気を取り戻していく。

家というのは、使ってなんぼ。汚れることや散らかることを怖れていては楽しく住めない。
だからこそ、マメに片付け、毎日掃除をするのが一番。
そして、そうできているかどうかが、自分自身の心の元気度のバロメーターになっている。




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