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月夜の海、朔の森

夢現(ゆめうつつ)・・・その2

最近、ツイッターで
「不思議の国のアリス症候群」(略してアリス症候群)
という言葉を知った。
ずいぶん前からネット上では使われていたようだが
全く知らず、昨日調べてみて興味を持った。

私自身の、入眠時にたびたび経験していたことが
この「アリス症候群」に類似している気がして
驚くと同時に少し安心した。
(自分の身の周りには、似たような経験をした者は皆無だった)

このブログにもその経験については書いたことがある。
2016年4月23日の記事
夢現(ゆめうつつ)・・・その1

今日、その記事を読み返してみると
あら、不思議・・・
タイトルに・・・その1としておきながら
その2はまだ書いていないことに気がついた。

これはもう、その2を書くしかないじゃないかと思う(笑)。

というわけで、
1年以上間があいてしまったけれど
今日こうして書いているものを続きということにする(汗)。


ここで、唐突だが
少しシュタイナーの本から引用したいと思う。

・・前略・・・人間は寝入ったあと、すぐに朦朧とした意識状態になります。もし人間が、意識を持って自分の状態を見ることができたら、自分がエーテル界のなかに注ぎ出るように感じることでしょう。・・・中略・・・意識を持って知覚したら、この状態は人間の心魂のなかに、大きな不安を呼び起こすことでしょう。

・・・中略・・・入眠直後の瞬間を、意識をもって体験したとしてみましょう。そうしたら、この不安のなか、そして神的なものへの憧れのなかに自分がいるのが分かることでしょう。・・・中略・・・その精神的体験が物質生活のなかに投影されます。その不安が私たちを駆り立て、「宇宙のなかで本当のものを認識したい」と、思います。・・・後略・・・      

・・・中略・・・人間が昼間起きているときに健康であるためには、神的・霊的存在との連帯感を、眠りのなかに運んでいく必要があります。
・・・中略・・・人間は入眠から目覚めまでのあいだ、精神的・心魂的世界のなかにいます。そうすることによって、昼間起きているときのための、健全な精神的・心魂的な力を取り出すことができます。・・・後略
ー『星と人間』より

少しと言いながら、やはり長い引用になってしまった。
これでもかなり略したので、前後の文脈がつながらないところもありますが、お許しを。

昼と夜、覚醒と睡眠、現(うつつ)と夢・・・
どのような言い方をしても構わないが、この対比は
思いのほか深い意味を持っているようだ。
全く別のものが互いに食い込み合うように、交じり合わずに影響し合い
陰陽太極図のようにも感じられる。

その境目にある(切り替えの)「時」を、覚醒側で捉えた場合に
アリス症候群のような体験をするのかもしれない。
(眠りの側で捉えても、多分覚えていない。夢で見たとしても修正が入るだろう。)


前回(その1)を書いた時点よりは、ちょっとわかってきた気もしているが
あんまり大差ないか(笑)。

この分だと、また「その3」が必要になるかもしれない・・・などと
苦笑いしてしまうが

せっかく思い出したので、書き留めておくことにする。






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南北の道

私の夢に出てくる動物たちは
東から登場して西へと去っていくことが割と多いです。
(「西(ニシ)」は「去(イ)にし」から来ているという説もある)
そして、それを見ている時の私は、常に南を向いています。

もちろん、それ以外のパターンもたくさんありますが
方角については、以前はあまり気にとめていませんでした。
古方位は知っていましたので、それと関連付けて考えてみたことはありましたが。



古方位(日本の古い方角の表し方。古時刻と重なる円形で表す。)

「古時刻と古方位」の画像検索結果

こういうの ↑ です。
(画像はhttp://suikan.seigasha.co.jp/image/jikoku.jpgからお借りしました)



アニマンダラのメディスンカードセッションを受けてからは
方位というものが、客観的な方角のみならず
もっと主観的というか、観念的な意味合いを持つものだという認識に変わりました。
(九つのトーテムアニマルが九つの方位に配置され、八面体と球面体を形成する)
  トーテムアニマルについては
  アニマンダラブログ『空間を守護するアニマルメディスン』をご覧ください。


昨日UPした「りとる ふぉれすと」の記事中の「赤い道、青い道」というのも
その意味合いで書いています。
青い道・・・東西
赤い道・・・南北
というように。

これは、いろんな言い換えができるだろうと思います。
精神的世界物質的世界・・・であったり
目に見えない世界目に見える世界であったり
個人的な世界共有世界であったり
ヌーソロジー的には
ヌースノス精神付帯質奥行(持続)と幅(延長)等化と中和
・・・などなどなど
もう、いろいろと言えてしまう基本的な対化ですが
アナロジーで重ね合わせて理解すると、構造的に同じというのがわかります。
ただ、これらの言葉は、どんな場面で使うかによって
次元の違いや階層、領域の違いも出てくるので
言葉の難しさを感じるところでもあります。

まあ、この辺りは不要な前置きだったかもしれません。
元の話、私の夢の話に戻ります。

ちょっと前に、こんな夢を見ました。
動物は出てきませんでしたが、方角がはっきりと示された夢でした。




私は二人の子どもを連れて、美術品や工芸品をたくさん置いた店の中(2F)にいる。
子どもの一人が眠そうにしていたのでおんぶすると、その子はすぐに眠ってしまった。
もう帰ろうかということになり
もう一人の子どもが、
「おんぶしてると歩くの遅くなるから、僕は先に走って帰るね。」
と言って、タッタカタと走っていってしまった。

私は眠り続ける子どもを背中におんぶして
南から北に向かって、ゆるやかな坂道をまっすぐに歩いていく。
途中、行き止まりに突き当たるが
東側の崖を下りて、そこにあった小屋で一休みして
また崖を登って、なんとか迂回することができた。
背中の子どもはずっと眠り続けている。

ようやくのことで、目的地(私の家)に着いた時、子どもが目を覚まし
(家では、ささやかなパーティーのような準備がされていて)
子どもは美味しそうにケーキを食べる。
先に走って帰った子どもも、ちゃんといた。




解説が不要なほどわかりやすい夢のように思いましたが
これも、東西と南北の意味に気づかなければ、よくわからなかったかもしれません。

南は、内なる子ども(ウニヒピリ)を守り、育む方位。
北は、賢明なる智慧の方位。
東は、霊的気づきを促し、そのための試練を示す方位。
(この夢で西は出てこなかったのですが、せっかくですので書いておくと)
西は、この人生でのゴール達成。真実と内なる答えへと導く道。

まったく、呆れるほどそのまんまの夢ですね(笑)。

この夢の北の我が家で、どのような智慧に触れたのかはわかりませんが
一つだけはっきりしているのは、南北の道、つまり赤い道を北向きに辿ったということです。

実は、もう二十年以上前にも、二人の子どもの夢を見ています。
その夢はこんな風でした。




現実ではあり得ないほど美しい月の夜。
海に櫓(ヤグラ)が建っている。
海にかけた桟橋を渡り、櫓(ヤグラ)の上に昇って月を見る。
月が指し示す方向を確認して、私は櫓を下り、桟橋を渡って
元の砂浜へと戻る。桟橋には一人の老人(?)が釣りをしていた。
「すみません」「どうも」などと言葉を交わし
私は、車に乗り込む。
車の後部座席には、ベレー帽を被った二人の子ども。
仲よさそうに座っている。

私は、その様子を時折ルームミラーで見ながら
南へ向けて、まっすぐに海岸通りを走る。
やがて椰子の木が見え始め、私は車を一軒の家の前に停める。

後ろのドアを開けると、子どもたちは嬉しそうにその家に入っていく。
そう、そこは、私たち三人のための家だった。




この夢を見た頃は、まだ結婚もしていなくて
自分に子どもがいる設定の夢を見たことは驚きでしたが
この夢のあと、現実で結婚をし、本当に男の子を二人授かり、離婚をして
二人の子どもを連れて実家に帰ったという経緯があり
「ああ、あの夢はこういうことを現していたのかなあ。」
などと思っていたのです。
しかし、(それもあるにはあるのでしょうが)
今は、もっと別の見方ができるようになりました。
ただ、夢の解釈についてはここには詳しく書きません。
細かい解釈はあまり意味がない・・・
というか、幾重にも多重に重なっているものが
一つの現象の中に存在するように思うからです。

ここで取り上げたいのは、「南北の道」と「二人の子ども」なんです。

「南北」は赤い道。実際の現実の人生そのものを現しているのでしょう。
「二人の子ども」は、私の内なる子ども(ウニヒピリ)だろうと思います。
二人いる理由も今はわかるのですが、話が煩雑になるので省略します。

昔見た(二つ目に書いた)夢では、赤い道を南に向かい
最近見た(一つ目に書いた)夢では、赤い道を北に向かっています。
どちらも、目的地(終着点)は「我が家」です。

「南北」は赤い道だと書きました。
それは、言い換えれば「共有世界」「人間の社会生活の場」です。
私たちはみんな、ここですったもんだの末、自我を成長させていくのかもしれません。
ありとあらゆる情動を伴いながら、この道を歩くのですね。
そして、その裏で「東西」の青い道をも通っている・・・
こちらは無意識のままで、目には見えません。
(私の夢では、東西の方に動物がよく出てくるのですが)

スピリチュアルに関心の高い人の中には、不思議な現象や神秘体験、目に見えない事柄を
必要以上にありがたがったりしがちな人も多いように思えたりもしますが
実は、それは霊的でも何でもないということになります。
そこにくっつく情動によっては
赤い道にありがちな、澱み(濁り)みたいな感じになるかもです。

赤い道の「」を純化していくこと・・・
不必要な(怖れを先手に持った反応としての)情動の洗い流し・・・
本当に必要なのは、ここなのだと思うのです。

青い道に関しては、自我の方からは感知できません。というか、操作できません。
(あちらからメッセージを送ってくることはあっても)

シュタイナーはこう言います。
「自我が三つ(アストラル体、エーテル体、肉体)に働きかけて進化する。」

シュタイナー風に言えば、
赤い道の純化が持つ意味は
   自我がアストラル体に働きかけて、『霊我』へと進化する   
ということになるでしょうか。
(さらにエーテル体に働きかけて『生命霊』、肉体に働きかけて『霊人』)


アストラル体とは、ズバリ動物意識とも言えますから
アニマンダラで言う、情動の洗い流しに相当すると思います。
水中から水面へ・・・まさにカエルですね。浄化のシンボル!

こうして改めてじっくり見ると
自我というのは、進化の要なのですね。
おろそかには決してできないものであり、そこを足場として立ち上げていく
そんな場所なのですね。

だから、赤い道が「見える世界」であるとは言っても、
そこには、もう一つ深い(あるいは上位の)次元が重なっているのです。

ちょうど、「水中」と「水の外の世界」の関係が
「物理空間」と「言語空間」の関係を現しつつ、さらに
「言語空間」と「情報空間」の関係も意味するように。

(このことは、アニマンダラレクチャーDVD vol.4で教わりました。
 便宜上、潜在化した状態を言語空間、顕在化した状態を情報空間と表現しているとのことです。)

人間は、すでに情報空間に進出しているにも関わらず
・まだ物理空間だと思っている意識状態を「言語空間」とし・・・これが「水中」
・物理空間には直接触れることができない(言語を通した世界しかない)
 と知っている意識状態を「情報空間」とする・・これが「水の外、陸上」

「現実も大事だよね。」と言うときの「現実」を
水中で見るのか、水の外(陸)で見るのかの違いは大きいです。

怒りや悲しみに埋没しているときは、まさしく「水中」で溺れているのですね。
赤い道が、見えている道だとしても「水中」で見るのと「水の外」で見るのとでは雲泥の差があるというか、そこにこそ「差異」を感じ取らなくていけないのだと思います。

我が人生を振り返り辿るとき、自我の純化に焦点を合わせることが大事ですね。
振り返っているように見えても、それは後ろ向きという意味ではなさそうです。

過去から今を通過して未来へと流れる「時間」のイメージ
未来から今を通過して過去へと流れる「時間」のイメージ
この二つの時間イメージは、たとえひっくり返しても
直線的な「時間」であることに変わりはありません。
そんな「時間」の呪縛から
私たちは、そろそろ本気で自由になるべき「時」なのかもしれません。










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流れの中のうたかたは・・・

若かったころ、教諭という職名で、学校という現場で働いていたことがあった。
現在、非常勤講師という職名で、(やはり)学校現場で働いている。

教諭を辞したには、複雑に絡み合う理由があり
そのことについては、あまりにも私事であるため
ブログという一般公開の場所に書くことは出来ないが
一つだけ、猫の死について触れておきたいと思う。

二十代半ばを過ぎて、まだまだ新米とはいえ、それなりに仕事にも慣れてきた頃
私は、通勤途中の路上で、猫の死骸に断続的に遭遇する・・・という経験をした。
正確には覚えていないが、3度や4度ではなかった。
二~三日続けて見て、数日あいて、また続けて見るという、
全体的には2ヶ月ぐらいにわたって
猫の(主に交通事故)死骸に遭遇したのだった。

さすがに「普通ではない」と思ったことを、強い印象と共に記憶している。
またその頃、職場を含め実生活でも、同様の「普通とは思えない」出来事が重なり
それが理由ともきっかけとも言えないが
結果的に、そのあと私は教職を辞した。

アニマンダラの天海さんの数秘術によると
その時期の選択(仕事を辞めるということ)は、
ちょうど、私の人生の流れに添ったタイミングで起きているのだそうだ。
そのぐらいの(キツい)出来事がないと、なかなか辞められなかっただろうなとは思う。
そういう意味で、キツい時期というのは
決して「間違っている(流れに逆らっている)から」キツいのだとは言い切れず
何か大きな変化の前の負荷と言えなくもない。(産みの苦しみ的な・・・)

仕事を辞めてからは、いろいろと(これもあまり詳しくは書けないので省略)あり
離婚をきっかけに職場復帰したのが十数年前。

もう教諭職に就く気はとうていなかったので、
常勤講師や私学の講師や、小学校の補充教員などで
各学校を転々とした。
ここ数年は、高校の非常勤講師で安定している。

人生の成功とかからは程遠く、特に実りもないような・・・
だからと言って、不満もなく
「ここらで一花咲かせるぞ」的な気分も全く出ず
言ってみれば、この世的な成功には興味はないのだけれど
達観するほどの根性もない。

まあ、中途半端と言えば中途半端な中に
一つだけ、「なにやらしたいこと」というのが
たまにチラホラと浮かび上がってきたりもする。

今日は、実はその辺のところを書きたいと思っていたが
なんだか違う話ばかり書いてしまった。

それについては、また次回・・・ということで
予告だけしておくと
教育に関するコトナノデスヨ・・・ハハハ(力のない笑い)

知識をいっぱい広げて手に入れて、ノウハウを身につけて
点数や順位の世界で、競争心や嫉妬心をあおられて
いわゆる社会の勝ち組たちが作った教育システムの中で
適応(順応)することを学ぶのが、学校という場所の一つの(大きな)目的であり
そこでは、生徒のみならず教師までもが、その環境にのみこまれ
自分の内在に目を向け、じっくり自分を辿る時間は喪われていく。
心は大事、生きる力をどう育てるか、などと言いながら
そこに時間をかけられない現実があるし
「生きる」が、社会的な生存の意味でしか捉えられていないこともあってか
ずいぶん的外れな教育目標が掲げられたりもする。

私にとって、この問題はとても大きすぎて
誰かや何かを批判することでは解決しないこともわかりきっているものだから
その時その場で、自分ができること、自分でできることだけをやろうと、
そうやって過ごしてきたのだけれど
少し、そのあたりについて、なにか考え始めたいと思うようになった。

次回予告のつもりが、長くなってしまって
すごく中途感あるけど、ひとまずここらで切り上げます。



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