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月夜の海、朔の森

「おと」から「うた」へ

言葉も歌も、ともに音を起源に持っている。

『言葉』おと→こと(oto→koto)+ば・・・「おと」に子音kがついたもの+「ば」
『歌』 おと→うた(oto→uta)・・・「おと」の母音が変化したもの。

語る(語り)はどうだろう?
「かた+る(り)」として、「かた」の部分は
「おと」→「こと」→「かた」(oto→koto→kata)
         ・・・「おと」に子音kがつき、さらにそれが母音変化したもの。

ついでに「物」はどうだろう?
「おと」→「もの」(oto→mono)
         ・・・「お」に子音mがつき、「と」の子音が変化(k→n)がしたもの。

こうしてみると、「oto」は、非常に重要な基礎的「音」であろうと考えられる。
「言葉」「歌(詩、唄、唱、詞、詠)」「物語」の、いずれの語をとってみても
「音」がその内部にひそんでいるのがわかる。

「音」なくして、言葉も歌も物語もあり得なかったのだ。

私たちは、ふだん当たり前のように言葉を使い、口から音を発して(発声)
他者とのコミュニケーションを行い、独り言を言ったりしているが
あまり自分の出す音(声)に気を遣うことはしない。
声に気を遣うのは歌うときぐらいだろうか?
(電話の応対とか、女性なら甘えた声とかもあるかもしれないが)



言葉と歌はともに音から生まれたが、音が言葉になるのと歌になるのには、明らかな(機能上の)分岐があったのだと思う。
だから、言葉によって歌が歌われるのではなく、(歌は言葉を使ってはいても)
本来言葉とは別系統で生まれたものと言えるかもしれない。

物語の「かたり」は、言(葉)が更に発展派生したものとも考えられるから
つまりこれも、歌とは別系統なのだ。

日本の歌は和歌と呼ばれ、詠むものであるが、「詠ずる」は声に出して歌うということだから、その点では「詠む」は「歌う」と同義。

とすると、歌は語らないものなのかもしれない。
語る歌があってもいいが、語りの「音」が歌の「音」と一致しないと、どこか違和感が残ったり耳障りだったりすることもありそうだ。

言葉は、その性質上、意味を固定する傾向が強いものだから
私たちは、しばしば言葉によって縛られたり、
言葉で他者を縛ったり(他者に縛られたり)、自分で自分を縛ったりもする。

言葉の意味を大事にし過ぎた結果、言葉の持つ「音」の部分(要素)の重要性を忘れてしまうのだ。
何を言うか(何と言われるか)ばかりを気にして
そこに焦点を当て過ぎると、自分の声がどんなふうに空間で響いているか
(あるいは、自分の肉体での響き方)をまるで無視して発声してしまう。

もっと、歌うように話してみてはどうだろう?
「話す」は「放す」でもある。
歌は、自分の音を外に放すことと言えるかもしれない。

私たちは、日々、言葉を操りながら生きているが
歌のように(歌だと思って、歌うときと同じくらい声に気を配って)おしゃべりしてみると、
ただのおしゃべりが、案外、小鳥のさえずりのような、耳に心地よい音になるかもしれない。

そう、私たちは、本来誰もが歌うたいなのだ。
言葉の意味に縛られ過ぎず、意味を彩りの一つとして歌に乗せるような
そんな物語が、あってもいいかなと思っている。




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