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月夜の海、朔の森

「もの」の不動性

日本語には、「もの」という非常に便利(且つやっかい)な言葉がある。
物質を指しても使うし、人物を指しても使う。はたまた形式名詞としても使われるし
「~とは言うものの」「ものごころ」「ものさびしい」などなど
他の言葉(動詞、名詞、形容詞と多岐に渡って)にくっついて
(寄り添ってという方がふさわしいか)日常の中にとけ込むように(たくさん)使われている。

「何者か」と問うとき、それは名前を尋ねているのではない。
「こういう者です」と応えながら、相手に差し出しているのは
多分、相手にとって自分は(おそらく)なにがしかの関係があるということの明示だろう。

また、「○○とはこのようなものだ」の、「もの」は、概念としての「もの」であって
それは、この現実世界の何かでは示せない、概念世界の存在である。
古文では、「ものす」という形式動詞が使われる。
どうした、こうしたと、はっきりとは言わず、言葉を濁すようなときに使われるたりもする動詞である。

ここでは、哲学的な「もの」の話ではなくて
文法的方面から話を進めてみたいと思っている。

まず、二つの代表的な形式名詞「もの」「こと」の比較から。

「花とは必ず散るものだ。」
あるいは「子どもは動き回るものだ。」という単純な例文を挙げてみる。
このときの「もの」とは、物体(花や子どもという物質的な存在)ではなく
その本質や概念を指していることがわかる。
この本質(あるいは概念)は、時空上にあるわけではない。
たとえ、どれだけ「動き回るもの」であったとしても、
その「もの」の方は不動の場所に存在するのだ。その意味で、「もの」は動かない。

これに対して、
「動かないことは、体によくない。」
または「君の言いたいことはわかるよ。」など、「こと」についての例文を挙げてみると
「もの」と「こと」の違いが見えやすい。

「こと」は、出来事に代表されるように、時空上に存在する。
いくら「動かないこと」と言っても、不動の場所という意味での「動かない」とは意味がまるで違う。(この時空の中で動かないというだけのことであって、時空上に在る限り、不動ではない)

現代人の私たちは、物質は目に見えるし触れることもできるから、当たり前のように「もの」が時空上(時空の中)に存在すると思ってしまっているが、
「もの」は、時空ではないところ、つまり「不動の場所」に存在している。
物質も、時空上に見ている限りは不動ではないが、
その本質、「もの」として見たときには、「不動の場所」が「もの」の住処となる。

そして、「こと」(出来事)の方は、私たちにの目には見えないし、触れることもできないから
つい、時空上(時空の中)にあるとは思えないでいる。
しかし、「こと」は時空上で起きるのだ。
「不動の場所」においては何事も起きていないのではないだろうか。
少なくとも、人間にとっては、時空上で起きることが出来事だし、
「こと」と関連性の深い「言葉」もまた、時空上でのみ使用されるのではないか。
おそらく、「不動の場所」には、言葉はなく、言葉の本質、本源、本来・・・そういうものがあるのみで、そこから時空上へと迸り出たときに「言葉」となって生まれているのではないか。

そんなことをつらつらと考えてみた。




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