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月夜の海、朔の森

「時」を見る目

現代人の私たちは、普通「時」と「時間」をほとんど区別なく使うことに慣れてしまっているが
「とき」「じかん」というふうに、仮名に置き換え、実際に発音してみると
随分と違うニュアンスを感じることがあるように思う。

古文の中で出逢う「時」は、必ずしも現代で言う「時間」とは一致しない。
「潮時」や「その時」と言う場合の、「時節」「好機」(時期、時代、時勢)を現すのだと思う。
つまり、タイミングに近いニュアンスだ。
(「時間がかかる」というような意味では「時」は使わないだろう。)

哲学的な意味での「時」論はさておいて(今の私に言えることはほとんどない)
ここでは文法的な意味での「時」について
「ぬ」「つ」という二つの助動詞から、考えを進めていきたい。

昨日は、krsm四面体という、古語の骨格とも言うべき基本助動辞(助動詞)について少し書いた。
その中の四つの頂点に位置する基本助動詞(ややこしくなるので、以下助動詞と記す)は
(いわば、関節に当たる部分か)「き」「(あ)り」「(あ)し」「(あ)む」の四つである。

この中の「(あ)り」に、「ぬ」または「つ」を複合させると、
「ぬ+(あ)り」→「なり」
「つ+(あ)り」→「たり」となる。

簡単に言うと、「なり」という助動詞の中には「ぬ」の意味と「あり」の意味が含まれていて
「たり」という助動詞の中には「つ」の意味と「あり」の意味が含まれているということになる。

ここで、「ぬ」と「つ」についてごく単純な説明をしておく。
どちらも、一般には「完了の助動詞」と呼ばれるが、実際的には
「ぬ」には、「差し迫っている状態」(今まさに~なろうとしている)が表現されている。
そして、「つ」の方は、「たった今そうなったばかりという状態」が表現されている。

それらに、それぞれ「存在」の意味を持つ「あり」がくっついた「なり」と「たり」には
元の「ぬ」「つ」とは、おのずとニュアンスの違いが生じる。
(「たり」は完了だけでなく存続の意味もあり、むしろ存続で使われることのほうが多いかもしれない。これはしごく当然のことだったのだ。)

「なり」には、「伝聞」の助動詞もあるが、成り立ちがどうやら違うようなのでここでは扱わない。

「つ」を二つ重ねて「つづく」という言葉が出来ているあたりも、納得できそうだ。

「つべし」「ぬべし」のように、後に「べし」をつけると「強意」の意味になるとされるが
前にも書いたように、意味が変わる(あるいは増える)と捉えるより、使える機能が増えると捉えるのが良いように思う。

あまり細かいところに注意を払いすぎても、いっこうに前に進まないので
言葉の足りないところは自覚しつつ(あ、ここでも「つ」の重ね)、次に行くことにする。

さて、古語では、「時」の表現に、ほんの短い助動詞一つで(一文字とか二文字で)でさまざまなニュアンスを示すことができる。

krsm四面体で現される助動詞の周りに「ぬ」と「つ」を周回させることで、見事にその多様な意味合いを表出させている。
実に感服するほかない。
なのに、これまで私は、文語助動詞一覧表を何度となく眺めながら、そんなふうに感動を覚えたことはなかった。接続からの分類や、意味の上からの分類が、逆に混乱を招いていたのだ。
機能でしかないものを「意味」だと思い、驚くほどたくさんの「意味」の名前を見て
それに当てはめるような訳の仕方で、ニュアンスをなかなかつかめないのも無理からぬことだったのだ。

「時」を見る目が、「時」の助動詞を選んでいるのかもしれない。
その目を失いつつある現代、「時」の助動詞の種類が少なくなったのも当然か。
「時」を見る目は、「時」の中には決して存在できない。
それは、krsm四面体やそれを周回する「ぬ」や「つ」の音を
自由自在に操れる場所にあるのだろう。

それは在る意味、究極の「今・ここ」のことかもしれないと思う。
人がものを語るとき、発生した音によって「過去」も「未来」も生まれるからだ。




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