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月夜の海、朔の森

しばらく続く(かも知れない)文法の話の前に

昨日の続きを書こうと思っていたが、その前に押さえておきたい(私にとって)大事なところがあるので、今日はそこから。

藤井貞和著『日本語と時間』  〈時の文法〉をたどる   
の「始めに」の中で、著者は次のように述べている。長くなるが、うまく要約する自信がないので、ところどころ略しながら引用することにする。
(以下引用)
 かつての日本語には、時間をあらわす「助動詞」(私は助動辞と呼びたい)が六種、ないし八種あった。古代人は時間を類別して、六通りないし八通りに、せっせと使い分ける言語生活を送っていた。
 現代人はしかしながら、六通り、ないし八通りに使い分ける、かれらの時間の仕分け方を、よくわからなくなっている。~中略~
 表現は微細な分析のうちにあるばかりでなく、多様な時間が行きわたる、語りの存在感のなかにも宿ると見るべきだろう。〈き、けり、ぬ、つ、たり、り〉は意図的に交叉するようにして、たがいに関係的に配置されていると見て取れる。それらが支えあって、文ぜんたいに周(アマネ)く行きわたろうとする、感情や思想の整いを保証する。そういう全体性にふれてみたい。~中略~
 古文の七~八種の時間の差異を知ってのち、近代文学や現代詩歌に接すると、われわれの近代や現代での文体を創る苦心とは、それら喪われた複数の時間を復元する努力だと知られる。これはおもしろいことだ。その意味で、日本語としての古代語から現代語までの一貫性は喪われ尽くしていない。~後略~  
               (「始めに」 より引用終わり)
*注:赤字は私が勝手に施した

ここでわかることは、著者の目的は学校文法(従来の文語文法)批判などでは決してないということだ。
昨日、私は『学校文法への違和感が示すところから』というタイトルで覚書を書いた。確かに、日頃学校文法に対して違和感を感じていたし、快く思っていない部分もあったが、だからと言って、批判(ここが間違っていると質したいとか、だから学校のお勉強はダメと言いたいとか)をしたいわけではなかった。(教える内容や教え方に改善の余地はたくさんあるとは思っているが)
私自身が感じる「違和感」を頼りに、私なりの(私が納得できればいいという程度のものに過ぎないが)、私にとっての日本語、言葉というものについて考えてみたかったのだ。
そういう意味でも、藤井氏の文法解説は大変有意義でありがたかった。

上の引用文の内、赤字の部分・・・ここが、ものすごく私の胸を打った。ぼんやりとしか感じられていなかった「私にとっての大事なこと」が、集約されている。
多くの古代語が消え、新しい日本語が続々と出現し、多様な言葉が溢れかえっている現代に生きる私たちは、皮肉にも、少ない言葉で多様な意味を表現する術を喪いつつある。
古代語の復活を唱えるのではなく、現代語の中に生きて呼吸し続けている日本語の精神を見つけ出したいと思う。ほんの小さなとっかかりでもいい。その方向に向かって歩みを進めたいと思っている。

藤井氏は「krsm四面体」なるものを提唱する。(以下引用)
 ksrm四面体は古代日本語から導かれた。古代人に限ることなく、現代人にも、世界にも通用する、普遍言語のモデルだということが最終的な私の主張となる。個人の脳内にも、あらゆる社会内部にも、いろいろなヴァリエーションがあるにせよ、一つずつ、これを持たされ、駆使して、会話やコミュニケーションをわれわれは試みている。        (1章 時のありか より引用終わり)

私たちは、おそらく、言語の本質を知らない。表に出ている言語(音声も表記も含め)の裏に、どれだけふくよかな世界が在るのか、人と人との間に、見えるコミュニケーションの裏側で、どれだけ深く厚い真のコミュニケーションが行われているのか、もしも、それを目撃できたとしたら、私たちは、もっと慎重に(大切に)言葉を使うようになるだろう。



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