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月夜の海、朔の森

とまれかうまれ疾く破りてむ

男もすなる日記といふものを
女もしてみむとてするなり

これは、言わずと知れた『土佐日記』の冒頭部分である。
作者の紀貫之は、自分を女に仕立ててこの日記を書いたとされている。

この有名な冒頭部分に対して、あまり知られていない最後の部分は
とまれかうまれ疾く破りてむ(とまれこうまれとくやりてむ)
こういう一文で閉められている。
「とにもかくにも、(この日記を)さっさと破って(捨てて)しまおう」
と書いてあるのだ。

ここに疑問を感じる人はけっこういるようで、私もその一人なのだが
疑問を持つ人の多くは、なぜ日記を破ろうなどと思ったのか?
というところに引っかかりを感じているように見受けられる。

私自身も、そこに一つのひっかかりを感じはするのだが
それよりも、
「破ろうと言いながら、なぜ破らなかったのか?」
「ただのポーズだったのか?」
それとも・・・無理やりな感じで残されてしまったのか?
というところが非常に気になった。

なぜって?
それは・・・
・鎌倉時代までは明らかに貫之自筆のものが残っていたとされている点
・藤原定家、藤原為家らが、自筆本から写筆したとされている点
(定家は臨書までしている。ただ、為家(定家の息子)の方が原本通りに写したと言われている。)

なんといっても、平安時代は藤原氏の天下である。それだからこそ
平安初期の紀氏である貫之の立ち位置的に(政治的影響力ではなく、歌、文学としての影響力を強く持っていたと推察される)、何か言い知れぬ謎が『土佐日記』に隠されているのではないか・・・などと、妙な憶測が働いてしまったわけだ。

藤原定家と言えば歌道の宗家。その定家が紀貫之の日記を臨書するほどなのだから
その日記は定家的に大きな意味があったのだろうと言ってもよいだろう。
新古今和歌集の代表撰者であった定家は、古今和歌集の代表撰者である貫之のことを尊敬していたのだろうか。(貫之の『古今仮名序』は日本最古の歌論としても有名。)
なんかね、そう素直には取れない気もしている。
紀氏と藤原氏・・・だからね、やっぱり、ここは・・・。(と言葉を濁しておく)

いろいろと憶測も飛び交いながら、私としては
最後の一文は、貫之の「うまいところ」だったのだろうと思っている。

貫之は、土佐での任務を終えて任地を離れるとは言え、
帰路の途中も当然のことながら、仕事として日記をつけていただろう。
これは、そのころの常識として「漢文」で書かれていたはずである。
冒頭にある通り、当時の日記とは男が(仕事、公用で)書くものであった。

でも、貫之としては、そんな漢文の公的な日記(日誌ですね)より
得意の仮名(女手とも言われるが、歌を詠むときは男でも仮名で書くのが普通)で
心情や旅情を書き留めておきたかったのかもしれない。
もしかしたら、京に戻ってきた後に、漢文の日記を頼りに(日付はもちろんのこと、出来事を細かく記してあるはず)、ごくごく私的な文章を書きたくなったのかもしれない。(土佐の地で亡くした娘への想いとか)
女ということにしてあるのは、本気で女に見せかけるつもりというのでもなく(女性的ではない表現も多々見られる。騙すつもりならそんなマヌケなことはしないはず)
茶目っ気の一つだったかも知れない。

この日記が、間違いなく後の女流日記文学に大きく影響したはずだし
その辺のところ、案外貫之はわかっていてやったような気もしている。

なかなかに本音を言いにくい時代だった(どの時代にも同じような問題はあるが、平安の初期なんて、ほんと、紀氏にとっては大変な時代だったと思われる。)

駄洒落やジョーク、ユーモアのセンス抜群の貫之は、何食わぬ顔であちこちに時限爆弾を仕掛けていたかもしれないと思っている。
(「君が代」が現代日本の国歌となったのも、貫之の仕掛けがあったからだろう。この辺りの話は、また機会があれば書こうと思う。)

和歌(やまとうた)に関して、なにか膨大な知識を持っていたと思われる貫之の、曰くありげな(女になりすまして書くなどという、とんでもない発想の)日記を、後の世に藤原定家が大事にしたのも頷ける話である。

そして、最後の一文
「とまれかうまれ疾く破りてむ」・・・
こんなものは、はやく破り捨てなきゃなあ・・・と
書きつつ、きっと長い時代を超えて読まれることになるのも
貫之は予想していただろう。

全く、『土佐日記(古くは土左日記)』と言いながら、土佐から京に帰る旅の日記であって
土佐での赴任中の出来事を記しているわけではないあたり・・・
定家本の奥書によれば、貫之の自筆で『土左日記』の外題があったとされる。
要は、『土左日記』には、別のタイトルが元々あったかもしれないということになる。
(外題と内題は同じこともあれば違うこともある)

なんてことのない、教科書によく載っている『土佐日記』だが
よくよく考えると謎は多い。







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