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月夜の海、朔の森

万葉集と古今和歌集・・・その2(その成立の歴史的背景)

 さて、前記事の続きになります。
 『万葉集』と『古今和歌集』この二つの歌集が成立した時代の歴史的な背景について、少し述べてみたいと思います。

 平城(ヘイゼイ)天皇というのは、平安遷都(うぐいすナクヨ平安京・・・794年のことですね)した桓武天皇の息子です。桓武天皇には、弟の早良皇太子がいましたが、息子に在位を譲るには、弟早良が邪魔だったと考えられます。早良は既に(桓武と早良の父親によって)皇太子となっていましたから、かなりの強行手段に出ないと、息子を天皇にはできません。

 その頃、桓武の側近、藤原種継が暗殺される事件が起こりました。暗殺を企てた一味の中に、早良がいると桓武は主張したのです。大伴家持は早良の側近でしたから、早良、家持共に罪人としたのです。
 早良は最後まで無実を主張し、食を絶って抗議しましたが、ついに死んでしまいます。家持の方は、実はこの時既に死んでいたのですが、罪人だという事で、生前の官位を剥奪されました。

 しかし、です。この後、桓武の息子が病気になるのですね。陰陽師にみてもらうと『早良の祟り』と出ました。慌てた桓武は、憤死してしまっている早良に『崇道天皇』の称号を贈り、奉り上げるのですよ。まぁ、『祟り(タタリ)』と『崇道』の「崇」の字の似ている事…。
 そして、桓武の死後に、家持も無罪が晴れて官位が戻ります。806年、平城天皇(桓武の息子)の即位の年です。

 さぁ、話を元に戻します。
 平城天皇の即位の時、大伴家持の無罪が公認されました。806年の事です。それから100年後、天皇の代がちょうど10代目、醍醐天皇の勅命で古今和歌集が編纂されます(905年)。真名序にある通りですね。

 ところが、仮名序(紀貫之が書いた)の方には、何やら謎めいた言葉があるのです。
曰く「平城天皇の御時に(万葉集が)広まった」・・・?
曰く「その天皇の御時に、柿本人麿が歌聖であった」・・・?
おかしいですよね。万葉集は大伴家持によって、奈良時代に既に編纂されていたし、平城天皇の時代に柿本人麿は生きていません(奈良時代の人ですよ)。
 そこで、学者さん達は考えました。平城の御時とは、へいぜい天皇の御代の事ではなく、平城京のあった奈良時代の事ではないかと。
 いやいや、それでは真名序との食い違いが出ます。貫之の書き間違い、もしくは後世に写本した人の写し間違いではないか、とかなんとか…。やれやれ。
 ここでは、書き(写し)間違い説を採用せず、そのまま読んで、じっくり考えてみましょう。
 万葉集は、大伴家持によって既に出来ていた…とします。しかし、家持が罪人とされていた為、世に出る事なく埋もれていた…と。家持の無罪公認と同時に、万葉集も認められた…と。

 そう考えると、謎が解ける気がします。
「万葉集には、(一部だとしても)天皇に反逆して罪人とされている者達の歌が含まれている。編纂に当たった大伴家持もまた、罪人とされていた。平城天皇の即位の時に、家持の無罪が公認され、同時に万葉集も公認された。」
 その意味するところは、万葉集に収められた無実の者達の無罪も公認された…ということではないでしょうか。
 つまり、万葉集は平城天皇の勅命ではないが、平城天皇によって、日の目を浴びたという事です。
 そして、平城天皇の時に柿本人麿が歌聖であった…の意味は、おそらく、それまで罪人扱いだった柿本人麿も、無罪公認で歌聖と呼ばれるようになった…と考えればよいのではないでしょうか。なにも、平城天皇の時に柿本人麿が存在したとは書かれていないのですから。

 そういった事情の全てを、紀貫之は当然知っていたと考えられます。
 醍醐天皇の勅命で古今和歌集の編纂に当たった紀友則と紀貫之ですが、案外、二人の方から醍醐天皇に、和歌集を作るよう、勧めたのかも知れません。ちょうど平城天皇の即位から100年後の事ですし、100周年記念として、真実を語り継ぎたいという意図もあったかと…。妄想ですが。
(100周年記念とかって、今でも好きですよね、日本人。外国ではどうなんでしょう?)

もう少し続きます。

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