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月夜の海、朔の森

言葉の背後で暗躍する四面体

五つのプラトン立体の中に、正四面体があるが
ヌーソロジーにおける幾何学とは「精神空間の幾何学」であるとされていて
このような幾何学の捉え方(考え方)からすると
言葉の裏に隠れている立体があり、それが言葉の背後でうごめいている(暗躍している)というふうに考えることは、全く不自然なことではない。

藤井貞和氏が提唱する「krsm四面体」を知ったとき、まず思い浮かべたのは
その意味での四面体だった。

以下は、藤井氏の説を取り入れながらも、その解説や考察をするのではなく
私個人の気付きの整理という視点から書いていこうと思う。
(藤井氏の説を詳しく知りたいかたは、前記事に書籍のリンクを貼っているので、それを参考にしてください。)

画像の添付をすれば見やすいのだが、できるだけ文章のみで書くことにする。

まず、頭の中に正四面体を思い浮かべる。
頂点が四つ。辺が六つ。大きさはない。(距離のない世界での話だから)
下に三角形を一つ描いて、それぞれの頂点から上部の頂点に線を結び、三角錐を描く手順。

便宜上、場所を固定すると
下部三角形の左頂点に、「r」(「り」または「あり」)を置く。
下部三角形の右頂点に、「m」(「む」または「あむ」)を置く。
下部三角形手前頂点に、「s」(「し」または「あし」)を置く。
三角錐上部頂点に、「k」(「き」)を置く。

そうすると、
「r」と「m」を結ぶ線上に「らむ」が出現し
「r」と「s」を結ぶ線上に「らし」
「k」と「r」を結ぶ線上に「けり」(「けり」は「き」+「あり」)
「k」と「m」を結ぶ線上に「けむ」(「けむ」は「き」+「あむ」)
「m」と「s」を結ぶ線上に「べし」「まし」が出現する様子が見て取れる。

これが何を意味しているかというと、
従来、助動詞はそれぞれ単独に意味を付加され、個別に活用や接続の分類をされてきたわけだが
線上に位置する助動詞は、二つ(頂点)の基本の助動詞の組み合わせであることがわかる。
たとえば、「けり」という過去の助動詞は、「き」という過去の助動詞と「あり・り」という「存在・存続」を表す動詞との複合体だということ。
だから、「き」が、すでに起きて今はもうないことであるのに対し、
「けり」の方は、過去に起きたことが、今も存在しているという意味合いを、その語感の中に含みもつのだ。
「けむ」が過去推量と呼ばれるのも、そのためだし
「らむ」が現在推量と呼ばれるのも同じ理由による。

こう考えると、「けり」は間接体験の過去で、「き」が直接体験の過去だという従来の説明が
なんとなく腑に落ちなかった理由がわかってくる。

古事記を読むと、過去を示すのに「き」ばかりが使われていて、「けり」は滅多にお目にかからないというのは、当時の古事記の記述者にとって、古事記の(で語ろうとする)内容は、「すでに起きて今はもうない」事柄ばかりだからなのだ。
「き」は、積極的過去とでもいうべきもので、「き」が出た時点でそこに過去の時間が現れると言ってもよい。
一方、平安文学の物語ではしきりに「けり」を目にする。あれは、物語の中で進行している事柄だから、過去であっても「あり」の意味をを含む「けり」でなければ落ち着きが悪いのだ。
物語の中では、(ちょうど映画と同じように)その中に独自の時間が流れている。そこを現すのに、「き」と「けり」はうまく使い分けられている。
「けり」の本来は、動詞「来(けーきあ)り」だろう。もっと言えば、「き」の本来はカ変動詞「来」の連用形「き」に強く関係するだろう。「来」が過去の意味を持つ助動詞になっていくのは、感覚的にはよくわかる。藤井氏が述べているように、おそらく、元になる語Xがあったとして、そのXから、動詞「来」と助動詞「き」が生まれたのだろう。その時、「あり」を含み持つ「けり」も派生したのかもしれない。
また、「き」の未然形「せ」、連体形「し」、已然形「しか」は、S音であり、「為」という動詞の存在も関わってきそうだ。
そして、この「来」も「為」も、大変重要な動詞である。その証拠・・・とまでは言えないが、「来」「す」は、変格活用の動詞である。現代語でも「来る」は、数ある動詞の中では希少な変格活用をする動詞の一つ(関西圏では、「す」も未然形にいまだ「せ」を使う・・・「せえへん」「せん」など)なのだ。


四面体の話に戻る。

先ほどは、四面体の四つの「頂点」と五つの「線」上に助動詞を当てるところまで書いた。
次は、これらを三つに分けた「領域」について書いてみる。

藤井氏は、
「k」~「r」にかけての領域を「時間域」
「s」周辺の領域(受け持つ守備範囲)を「形容域」
「m」周辺の領域(受け持つ守備範囲)を「推量域」としている。
(受け持つ守備範囲なんて言い方は私が勝手にしているだけです)

こう見ると、これまで推量の助動詞「む」の、「推量」というのが
「未来」を指すようなイメージが強かったのに対し、
あくまで「推量」なのだというのが強調されて、とてもわかりやすくなる。
どういうことかというと、私たち現代人は、時間を「過去」「現在」「未来」という直線上のイメージで捉えてしまい勝ちなため、「推量」を時間軸上の未来と同一視してしまいそうになるが、「推量」そのものは、時間軸の上には立っていないということだ。そして、その「推量」が時間軸上の「未来」というものを作り出していく。

また、形容域の「し」についても、形容詞として独立していく前段階のようなものが伺える。
「あり・り」との線分上に「らし」が出現すると書いたが
「らし」は「らしい」に通じる。「らしい」という感覚が形容の始まりかもしれない。

まだ、四面体がどのように言葉の背後で暗躍しているのか・・・について
全然触れることができていないが、
普段何気に使っている言葉のうちのいくらかは
上述したような助動詞が持つ基本の概念が、互いに絡み合いつつ外部に出てきているというあたり、少し押さえられたかなあと思っている。


ということで、かなり長くなったので、まだまだ言い足りないところを残しつつ
今日はこの辺で、いったん締めることにする。




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