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月夜の海、朔の森

立派

「立派」とは、日本の古典芸能において「新たな流派を立てる」の意であった。

守・破・離・・・

「守」で、師に就き、とことん伝統の型(基本)をまねる(学ぶ)。
「破」では、その基礎の上に独創性を生み出し、うまくいけば(周囲から認められれば)
「離」・・・師の元を離れ、新たな流派を立てる→「立派」となる。

しかし、「守」だけで終わる、あるいは「守」もかじっただけで終わる者だって多い。
「破」に至っては、文字通りただの「破門」にしかならない場合だってある。

「立派」となるには、長い時間をかけて伝統を学ぶ(守)だけではダメで、
ただ独創性がある、というだけでもダメ。
破門になるというリスクを背負って伝統を「破る」、気概というのか
損得を超えた、自分でもどうしようもなく、こうするしかなかった・・・みたいな
流れ(時代の要請も含め)の中で「立派」は生まれるのかもしれない。

真に「立派」な人と呼ばれうる人物は、概してそのような雰囲気を持っている気がする。

ところで、この話は社会一般、世間的な、いわゆる外側の世界の話であって
自分の内側に当てはめてみることは可能だろうか?
と、考えてみた。

なんとなく、ヌーソロジーの「差異」を見つけていく道に似ていなくもない(気がする)。

幅の世界で、自我の型を満喫し(苦も楽も味わいつくし)
自我の殻を内側から破り、離れていく・・・

まずは「守」。徹底的な「守」なくして「破」はあり得ない。
「破」には大きなリスクも伴うが、それは多分
自我が感じる「恐怖」という側面があるからだと思う。
芽出度く「離」し、立派となる道を選ぶのは
案外、自我の目には見えない、もっと深い「意志」なのだろう。
時代の要請が先にあるのではなく、
「意志」が時代の要請と呼応しあう関係性の中で
あなたも私も、生きているのかもしれない。





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『シュタイナー思想とヌーソロジー』予約しました!

待ちに待った「シュタイナー」と「ヌーソロジー」のコラボ本が
いよいよ今秋に出版ということで
さっそくアマゾンにて予約しました。
『シュタイナー思想とヌーソロジー』半田広宣・福田秀樹・大野章(著)

表紙の画像を一目見て、「あ、アレだ!」
と、アニマンダラのレクチャーを思い出し

(こちら『ANIMANDARA生命の己読みブログ』に、
書籍に至る経緯や表紙に関する事柄も詳しく書かれています。)

また、2013年の8月に神戸で行われた「シュタイナー」の講演会(福田秀樹氏と半田氏のコラボ講演&対談)のことも思い出しました。

その講演会は、事前に予約し料金も支払っていたにも関わらず
諸事情で行けなくなってキャンセルした(お金も払い戻ししていただきました)
あの講演会のことで・・・。
行けなくなったのは仕方ないから、後からDVDを購入して見たのでした。

そんなこんなを思い出して、昨日はそのDVDを見直しました。

講演、対談の内容及び資料から、つくづく感じたのは
言葉(書くにしろ話すにしろ)に表現するには
その表現されたものの後ろに、それを表現した人の、膨大な知識と経験がつまっているということでした。
ここで言う知識というのは、もちろんバラバラの断片的知識ではありません。
乾いた(カタログ的な)知識でもありません。
有機的結合を果たした知識、ドックンドックンと脈打つ、生きた知識のことです。

今回のコラボ本は、これがタップリ詰まった書籍ですから
1000ページを超えるのも致し方なく、お値段も1万円超えですが
けして高くはない、むしろそれ以上の(はるかに高い)価値があると思っています。
(いえ、もう価値が金銭に替えられないものになっている気がしています。)

注:後に段組編集によりページ数が減りました。
  それにより、お値段も本体価格8000円まで下がっています。



さて、ここからは、ワタクシゴトの「シュタイナー」&「ヌーソロジー」について書こうと思います。(長い前フリでしたが、本の紹介にもなればということで。)






私がシュタイナーを知ったのは学生時代の頃のことで、もう30年以上も前の話です。
最初は、確か児童心理の講座で扱われていたシュタイナー教育の本から入ったのでした。
これが、当時の私のツボに妙にはまりまして、その後教育関連以外のシュタイナー本を読むようになりました。
言葉も概念も難解だし、一冊読んでもその中でわかることはほんの一握り(一つまみ?)
・・・なのに
何故かメチャクチャ面白いと感じてしまう・・・
それが、当時(20代)の私のシュタイナー本に対する感想でした。

しばらく間があいて、30代になってから、また別方面からシュタイナーに触れる機会があり
このときは、かなりの衝撃を受けました。
「以前に読んでいた時は、何もわかっていなかったのだ!」という感じの衝撃です。
過去に読んだものをもう一度引っ張り出して読み直し
また新たに購入して(それでも総数20冊にも満たない)読みました。

以前よりはわかるようになっていたのですが、それでも、難解であることには変わりなく
わかるところが増えた分、よけいにわからないところが明確になるような
もどかしさも感じていました。

それから40代も近くになって、私はヌーソロジーに出会ったのです。
『人類が神を見る日』を読んだのは1999年の秋だったと思います。
『人類が神を見る日 アドバンスト・エディション』はこちら

立て続けに『シリウス革命』を読み、
シュタイナーとの類似性に強く興味を持ちました。
シュタイナーで知りたかった(でも難解で知りえなかった)ことが
ヌーソロジーを知ることでいくらか解決もしていったのでした。

『シリウス革命』でも、シュタイナーのことに若干触れられていましたし
『phonio』vol.01では、生物学者大野氏が記事の中でシュタイナーに触れていて、また
『phonio』vol.02では、大野氏と半田氏の巻頭対談「生命と霊性」の中で
   ヌース理論(当時のヌーソロジーの呼び方)は、ポスト・シュタイナー理論のようなものだと認識しています。   と、大野氏の言があり
ああ、やはり、そうなのだ・・・と、ヌーソロジーとシュタイナーの深い共通性を私が感じたのは、私の勝手な妄想ではなかったのだと知りました。

2010年9月に行われた「ヌースレクチャー 2010 FINAL  EVENT」で
大野氏が『ヌーソロジーとシュタイナー神学』と題して講演された時のDVDがあるのですが
ものすごく感激して見たものです。

そうして、もっとガッツリ(ヌーソロジーとシュタイナーのコラボを)見てみたいと
よけい強く思うようにもなりました。

そこへ、ブログの初めの方にも書きましたが、2013年8月にシュタイナー関連の講演会があると知り、さっそく申し込んだのでした・・・が、あいにく出席できず
後からDVDを購入し、おかげさまで見ることができたのでした。

そして、この講演会(後に東京でも)が発端となり、
今回のコラボ本出版への道がついたという話です。
ガッツリを希望していた私としては、願ったり叶ったりで、もう買うしかありません!

表紙には、五月に御縁をいただいたアニマンダラの天海さんも関わっていらっしゃいますし
観音企画の景山さんにも(キャンセル、返金などと)お世話いただいたこともあり
そんなこんなをひっくるめて
私としては、とにもかくにも嬉しく待ち遠しい出版となりました。

この本の作成に直接携わった方々の感慨は、ひとしおでしょう。

陰ながら、本が多くの人の手に渡り、読まれることを祈っています。

「ヌーソロジーを知らないなんて、オックレテル~」
という時代は、もう来ているのだと(勝手に)思ってます(笑)。


6月25日にアマゾンの予約をしました。
9月末ごろの発売を心待ちにしています。

以上、私が「ヌーソロジー」と「シュタイナー」のガッツリコラボを
強く希望していた理由・・・でした。



なお、『ヌースレクチャーDVD』 
及び 『phonio vol.02』(他ヌーソロジー関連書籍)
ヌースアカデメイアのショップでご購入できますが、
レクチャーDVDの2009~2010は、ダウンロードのみとなっているようです。
『FINAL EVENT』は出ていない模様。
『phonio vol.01』も今は出ていないみたいです。








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「おと」から「うた」へ

言葉も歌も、ともに音を起源に持っている。

『言葉』おと→こと(oto→koto)+ば・・・「おと」に子音kがついたもの+「ば」
『歌』 おと→うた(oto→uta)・・・「おと」の母音が変化したもの。

語る(語り)はどうだろう?
「かた+る(り)」として、「かた」の部分は
「おと」→「こと」→「かた」(oto→koto→kata)
         ・・・「おと」に子音kがつき、さらにそれが母音変化したもの。

ついでに「物」はどうだろう?
「おと」→「もの」(oto→mono)
         ・・・「お」に子音mがつき、「と」の子音が変化(k→n)がしたもの。

こうしてみると、「oto」は、非常に重要な基礎的「音」であろうと考えられる。
「言葉」「歌(詩、唄、唱、詞、詠)」「物語」の、いずれの語をとってみても
「音」がその内部にひそんでいるのがわかる。

「音」なくして、言葉も歌も物語もあり得なかったのだ。

私たちは、ふだん当たり前のように言葉を使い、口から音を発して(発声)
他者とのコミュニケーションを行い、独り言を言ったりしているが
あまり自分の出す音(声)に気を遣うことはしない。
声に気を遣うのは歌うときぐらいだろうか?
(電話の応対とか、女性なら甘えた声とかもあるかもしれないが)



言葉と歌はともに音から生まれたが、音が言葉になるのと歌になるのには、明らかな(機能上の)分岐があったのだと思う。
だから、言葉によって歌が歌われるのではなく、(歌は言葉を使ってはいても)
本来言葉とは別系統で生まれたものと言えるかもしれない。

物語の「かたり」は、言(葉)が更に発展派生したものとも考えられるから
つまりこれも、歌とは別系統なのだ。

日本の歌は和歌と呼ばれ、詠むものであるが、「詠ずる」は声に出して歌うということだから、その点では「詠む」は「歌う」と同義。

とすると、歌は語らないものなのかもしれない。
語る歌があってもいいが、語りの「音」が歌の「音」と一致しないと、どこか違和感が残ったり耳障りだったりすることもありそうだ。

言葉は、その性質上、意味を固定する傾向が強いものだから
私たちは、しばしば言葉によって縛られたり、
言葉で他者を縛ったり(他者に縛られたり)、自分で自分を縛ったりもする。

言葉の意味を大事にし過ぎた結果、言葉の持つ「音」の部分(要素)の重要性を忘れてしまうのだ。
何を言うか(何と言われるか)ばかりを気にして
そこに焦点を当て過ぎると、自分の声がどんなふうに空間で響いているか
(あるいは、自分の肉体での響き方)をまるで無視して発声してしまう。

もっと、歌うように話してみてはどうだろう?
「話す」は「放す」でもある。
歌は、自分の音を外に放すことと言えるかもしれない。

私たちは、日々、言葉を操りながら生きているが
歌のように(歌だと思って、歌うときと同じくらい声に気を配って)おしゃべりしてみると、
ただのおしゃべりが、案外、小鳥のさえずりのような、耳に心地よい音になるかもしれない。

そう、私たちは、本来誰もが歌うたいなのだ。
言葉の意味に縛られ過ぎず、意味を彩りの一つとして歌に乗せるような
そんな物語が、あってもいいかなと思っている。




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